ドイツ軍の対応
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ワルシャワ市内には治安部隊を中心に約12,000名のドイツ兵が駐屯していた。その内、戦闘部隊と呼べるのはオストプロイセン擲弾兵連隊の約1,000名だけであった。ドイツ軍治安部隊は数で劣っていたものの国内軍を圧倒する豊富な物量装備をもって臨んだ。その兵員の大半が火器を持たない国内軍では目標地点のほとんどを占領できず、わずかにドイツ軍の兵舎、補給所を占領しただけであった。即日報告を受けたアドルフ・ヒトラーは、これをみて、赤軍が国内軍を支援する気が全くないと判断し、蜂起した国内軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命ずる。 国内軍は引き続き、目標地点に攻撃を仕掛けるが成果は上がらず、警察署や電話局では取り残されたドイツ軍部隊が徹底抗戦を行っていた。しかし、ドイツ軍の補給所、兵舎の占領により、当初数人に一人しか銃が無いという状態を脱し、奪ったドイツ軍の小火器、軍服が国内軍兵士に支給され、装備面で多少の改善が見られた。これにより、敵味方が同じ軍服を着用するため、国内軍兵士はポーランド国旗を模した腕章やワッペンを着用し、識別を行った。さらに多くの市民が国内軍に参加、協力をして、ドイツ軍の反撃に備えバリケードを築いた。 鎮圧軍司令官に任ぜられたエーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将は8月3日には現地に入り、周辺の部隊をかき集め、5日には反撃に出る。急遽近隣に駐屯していた部隊をかき集めたドイツ軍は殆どが大隊規模の部隊だけで、臨時に戦闘団に編成し、市街地西側から攻撃を開始する。しかし、国内軍を中心として士気が高くよく統率のとれたレジスタンスの猛烈な防戦に会い、進撃は遅々として進まなかった。攻撃部隊にはカミンスキー旅団やSS特別連隊「ディルレヴァンガー」といった素行の悪さで有名な部隊が加わっており、これらの部隊の兵士たちは戦闘より略奪や暴行、虐殺に励んだ。このことはワルシャワ市民と国内軍の結束をより一層強め、戦意を高揚させた。 7日には市街地を何とか横断し、国内軍占領地を分断し、包囲されていた部隊を解放した。しかし、市街地に立て籠もる国内軍の抵抗は続き、激しい市街戦が続く。国内軍も8月19日に総反撃に出て、電話局を占領し、120名のドイツ兵が捕虜になった。ディルレヴァンガー連隊、カミンスキー旅団の残虐行為への報復として、捕虜のうち武装親衛隊兵士や外国人義勇兵は全員その場で処刑された。
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ドイツ軍の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 15:54 UTC 版)
第1ウクライナ方面軍の攻撃により、中央軍集団(司令官フェルディナント・シェルナー)の大部分がチェコスロバキアへ通じる南西方向の街道沿いに撤退したが、その内第4装甲軍(司令官フリッツ=フーベルト・グレーザー(英語版))麾下の第5軍団はフォルスト(英語版)北方で包囲されながらもコトブスを保持していたのでヴァイクセル軍集団(司令官ゴットハルト・ハインリツィ)へ配置転換、第9軍に所属することになった。第4装甲軍はソビエト赤軍第1ウクライナ方面軍の側面へ南方から攻撃を行い、小規模ながらも進撃を停止させた。そこでナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは第9軍にコトブスの保持をしながら戦線を整理して北方へ進撃するよう命令した。これが成功すれば、第1ウクライナ方面軍を南北から挟撃、包囲することが可能であり、またヴァイクセル軍集団の第3装甲軍(司令官ハッソ・フォン・マントイフェル)が第1白ロシア方面軍の突出部を包囲、第3SS装甲軍団(英語版)(司令官フェリックス・シュタイナー)がベルリン北方を制圧することを可能にするはずだった。その命令が発せられた日、シュタイナーは任務遂行のための十分な兵力を保持しておらず、ヴァイクセル軍集団司令官ハインリツィは第9軍が速やかに後退しなければ、ソビエト赤軍に包囲されると総司令部に報告した。特に、ベルリン北西部への撤退はすでに機を逸しており、西へ撤退すべきと強調した。ハインリツィはヒトラーの同意がなくても、部隊を撤退させるつもりであった。 4月22日、午後の作戦会議でハインリツィが命令通りに行動する気がないことを知ったヒトラーは大激怒し、この戦争は敗北するだろうと国防軍首脳を非難し、自身はベルリンに留まり、最後の時は自殺すると宣言した。国防軍最高司令部 (OKW) のアルフレート・ヨードル上級大将はヒトラーの怒りを納めるため、エルベ川西岸のアメリカ軍が東に動くとは思われないのでそこに対峙している第12軍はベルリン救援に駆け付けられると発言した。ヒトラーは第12軍(司令官ヴァルター・ヴェンク)がアメリカ軍との対峙を中止してベルリン救援に駆けつければ、第9軍と連携が可能になると考え、そこでヒトラーはハインリツィに部隊の移動を許可した。 ヒトラーは第12軍がベルリン救援に駆けつけ、第9軍と連携してソ連を撃破できると考えていたが、ハインリツィ、ブッセ、ヴェンクらはそう考えていなかった。しかしこのヒトラーの命令のおかげで第9軍が包囲を突破して第12軍と連携し、多くの民衆や兵士を西部戦線へ脱出させることが可能となった。そして4月25日0時過ぎ、攻撃を効果的に行う為の自由裁量がブッセに与えられたことにより、さらにこのことの成功率を高めることになった。
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