ドイツ軍の反応と反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 01:31 UTC 版)
「コルスン包囲戦」の記事における「ドイツ軍の反応と反撃」の解説
マンシュタインはこれに素早く反応し、2月初旬までに第III、第LVII装甲軍団が被包囲部隊を救出するために集められた。しかし、作戦立案にヒトラーが介入し、ソビエト2個方面軍を取り囲む実現困難な救出作戦への変更を余儀なくされた。 第III装甲軍団の司令官ヘルマン・ブライトは、救出部隊と包囲されたシュテンマーマン集団がそれぞれ包囲を突破して合流する作戦を主張した。マンシュタインは当初、ヒトラーに同意したように見せかけて、戦力で上回る赤軍部隊の包囲を試みる攻撃を行った。第XLII装甲軍団所属の歴戦の師団である第11装甲師団(戦車27両、突撃砲34両が所属)による攻撃が行われたが、すぐに進軍速度は落ち、作戦に対して大きな影響を与えられなかった。ソビエト赤軍への包囲作戦が失敗に終わると判断したマンシュタインは、第III装甲軍団に包囲されたシュテンマーマン集団を救出する作戦に変更する命令を出した。ブライトは第1SS装甲師団に北上させて北側面のカバーを行わせ、第16、第17装甲師団にGniloy Tikich川方面へ進撃させ、進展を果たした。ジューコフはこの攻撃に驚き、ヴァトゥーチン に「ドイツ軍の先遣部隊を孤立させ、これを殲滅することを目的」として素早く4個戦車軍団の装甲部隊を集めるよう命令した。しかし、ドイツ軍のこれらの進展は、天候の変化により泥濘と化した大地のために鈍り始めた。ドイツ軍の装輪車両の弱点は明白となった。アメリカのレンドリースにより供給されていたソビエト赤軍の4輪及び6輪駆動式トラックは泥濘と化した道を走ることができたが、ドイツ軍の2輪駆動式車両は泥にはまり動けなくなっていた。 2月5日から6日にかけての夜、コーネフは第4親衛軍と第5親衛騎兵軍団に、ドイツ2個軍団を含む包囲内のドイツ軍の分断を命令した。激戦が交わされ、シュテンマーマンとリープらはソビエト赤軍の目的を明確に知ることとなった。彼は脱出路である「コルスンはどんな犠牲を払おうとも確保しなければならない」として、この激戦区に第5SS装甲師団の装甲部隊を第72歩兵師団と共に派遣そ、差し迫った危機を回避した。赤軍の攻撃は2月7日から10日にかけて再開された。泥濘化した大地は状況に影響を及ぼしたが、それが唯一の原因ではなかった。ドイツ第III装甲軍団のGniloy Tikich川への侵入は第1ウクライナ方面軍配下の第6戦車軍のような部隊の補給線を「それらが以前にそうであったように非常に伸びきった状態」に陥らせた。そのため、ソビエト赤色空軍はポリカールポフ Po-2を使用していくつかの部隊を投入し始めた。
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