ドイツ軍の作戦準備
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ドイツ軍の作戦準備は戦史上でも稀なほど極秘裏に進められた。作戦を知っているのはヒトラー以下一部の高級軍人に限られ、機密が漏洩した場合は命をもって贖うと宣誓させられた。作戦区域内で素性の怪しい住民は事前に移住させられ、作戦に参加予定の部隊の兵士で出自の怪しい者は転属させられる徹底ぶりであった。作戦に参加予定の部隊はオーストリア、東プロイセン、デンマークといった遠隔地から集めねばならず、部隊の移動が最も大きな問題となったが、主に鉄道を使用してこの問題を解決した。連合軍の航空機が跳梁している日中には、部隊を乗せた列車をトンネルや森の中に隠しておき、夜間になって素早く目的地に移動して部隊を降ろし、夜明け前には次の積み荷のために指定場所に向かうといったことを繰り返した。鉄道の拠点には空襲警戒所を多数設置し、連合軍の航空機を発見すると素早く列車をトンネルなどに潜り込ませた。9月から11月にかけてドイツ軍が鉄道で輸送した兵器、物資、燃料などは延べ貨車10,000両分の144,735トンにも上ったのに対して、この間に連合軍の航空攻撃で失った列車はわずか23両だけであった。また、鉄道輸送された部隊はそのまま攻撃位置に直行することはなく、攻撃開始直前に攻撃開始地点に移動する手筈となっていた。 連合軍はドイツ軍のエニグマによって暗号化された無線通信を傍受し、それを暗号解読班(アメリカ軍はマジック、イギリス軍はウルトラ)が解読することによって、諜報作戦をほとんど成功させていた。この暗号解読によりドイツ軍の機密情報をいくども取得してきた連合軍の上級司令部は、情報収集や情報分析を暗号解読に大きく依存していたが、ドイツ軍は作戦開始の3週間前から無線の利用を厳しく制限し、作戦計画については、命令文を暗号通信で送信するのではなく、高級将校が厳重に管理した命令書を持ち運び、物理的に伝達先の高級将校に手渡すといった、原始的ながら徹底した機密保持策を行っていた。また、ドイツ国内ではこのような命令が電話とテレプリンターによってやり取りされており、ドイツ軍の無線の沈黙により、情報収集を暗号無線の解読に頼り切っていた連合軍はドイツ軍の正確な意図を分析しかねていた。 連合軍上級司令部が暗号無線解読に偏重するなかで、敵陣深くに侵入し多くの捕虜を獲得してこれを尋問して敵の意図を探るといった、従来型の威力偵察が軽視されるようになっていた。前線ではドイツ軍の活発的な動きに関する情報が上級司令部に寄せられ、ドイツ軍捕虜からも貴重な情報が得られており、そのなかには、ドイツ軍の極秘作戦であるグライフ作戦の概要の情報まであった。アメリカ第1軍司令部の情報参謀ベンジャミン・ディクソン(英語版)大佐は、押収したドイツ軍の秘密文書や、周辺の航空偵察写真、それに従来型の威力偵察による情報などを総合的に分析して「フォン・ルントシュテットは兵力を巧みに温存しており、しかるべきときに、しかるべき場所で、空軍、装甲兵力、歩兵、秘密兵器による集中的な反撃に出る能力を有している」「反撃の場所は、おそらくドイツ軍が幾度もフランス侵入への通路として使用したアルデンヌ近辺だろう」とほぼ完ぺきにドイツ側の意図を看破していたが、その分析が活かされることはなかった。ディクソンらの警告の他にも、偵察機がティーガーIを輸送する貨車や長い病院列車などを発見していたが、それはアルデンヌではなく他の戦線への移動と判断していた。航空機による偵察については、悪天候が続いて徹底した偵察ができなかったこともドイツ軍に幸いした。また、第6SS装甲軍と第5装甲軍が極秘裏にアルデンヌに移動していたのに、連合軍は両軍団がどの位置にいるのかも掴んでおらず、また位置を特定するために何の対策も講じなかった。 アメリカ軍は第1軍情報参謀のディクソンらの警告やドイツ軍増強の明らかな兆候にも関わらず、アルデンヌ方面の弱体な部隊の交代、もしくは強化を行わず放置した。アルデンヌ地区に展開しているアメリカ第8軍団(英語版)の司令官トロイ・H・ミドルトン(英語版)少将は「アルデンヌ地区は広大で、我が軍団は135㎞にわたって薄く長く展開しているのが現状」とオマール・ブラッドレー中将に警告したが、軍司令部では既にドイツ軍は相当に弱体化しており、もはや脅威とはなりえないという楽観論が主流となっており、ブラッドレーは「心配するなトロイ、連中があそこを抜けてくることは金輪際ないから」と回答している。第8軍団が属する第1軍の司令部は保養地として有名だったスパに置かれており、司令官のコートニー・ホッジス中将ら司令部幕僚は、スパの中心にある高級ホテルブリタニックホテル(ドイツ語版)に滞在していたが、これまで野営の幕舎生活であったのに、一転して優雅で快適な生活となったため警戒心が緩んでいたのも分析が楽観的となった一因との指摘もある。 緊張感のない司令部のなかで、ドイツ側の作戦を看破していたディクソンは「多くの捕虜はいま12月17日から25日までの間に攻撃があるだろうと述べ、中には“総統へのクリスマスプレゼントとしてアーヘンの奪還”の約束を口にしている」との具体的な警告も行ったが、「過労のせいで分析が悲観的になっている」として、軍上層部からの命令で強制的に休暇を取らされて後方に送られるといった有様だった。ミドルトンの指揮下にあった歩兵師団は4個師団であったが、そのなかの第99歩兵師団(英語版)と第106歩兵師団はアメリカ本土から到着したばかりで実戦経験はほとんどなかった。この頃にアメリカ本土から戦地に送られた将兵たちは、激戦が続く日本軍相手の太平洋戦域に派遣されるのを嫌がり、自分たちの部隊が西部戦線に派遣されるとわかると、全員が歓声をあげながら喜ぶといった状況になっており、この両師団の多くの将兵も自分たちが激戦に巻き込まれるとは考えていなかった。また、ヒュルトゲンの森で大損害を受けて休息・再編成中であった第28歩兵師団(英語版)や第4歩兵師団の兵士たちも、状況の許す限り戦争のことは忘れて、与えられる愉しみは存分に味わいたいという考えであった。 そして、12月12日にヒトラーによる最終集結命令が下され、各攻撃参加部隊は前線から20㎞離れた場所から、各攻撃開始地点に移動を開始した。移動の物音を消すために、車両の車輪や馬の蹄は藁で包み、地上のエンジン音を消すために航空機が集結地上空で低空飛行を繰り返して、航空機の騒音によって欺瞞を図った。12月15日の夜には兵員30万名、砲1,900門、戦車と突撃砲970輌が攻撃開始地点への移動を完了していたが、連合軍はそれにほとんど気が付いていなかった。作戦に反対していた国防軍首脳たちも、思いのほか順調に進んだ作戦準備で自信を深めて、ルントシュテットは「西部戦線の兵士らに告ぐ。諸君らに重大な時がやってきた。アメリカ、イギリス軍に対して攻勢を開始するのである。各人期するところがあると思う。我々はあらゆるものをこれに賭ける。母国のために、総統のために、超人的な目標に向かってすべてを捧げる崇高な義務を、諸君らは負っているのである」、モーデルは「報復の剣を創造した総統と祖国とを、我々は決して失望させない。ロイテンの戦いの勝利の精神を持って、進め」と全軍に対して訓示した。
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