ドイツ軍のモスクワへの進軍(11/1-12/5)
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「モスクワの戦い」の記事における「ドイツ軍のモスクワへの進軍(11/1-12/5)」の解説
11月12日~13日にかけて参謀総長ハルダ―と中央軍集団の各軍参謀・野戦指揮官はオルシャで戦略会議を開き、新たな攻勢の是非を話しあった。第2装甲軍司令官グデーリアン上級大将はモスクワ攻略の好機は去ったと判断していたが、中央軍集団司令官ボック元帥はモスクワへの攻勢を主張し、ハルダ―は攻勢の認可を出した。11月15日~18日にかけて第2・第3・第4装甲軍が攻勢を開始、中央軍集団はモスクワへの攻勢を再開した。スタフカは第10軍と第1打撃軍を増援として西方面軍に編入しジューコフにモスクワの死守を命じた。11月24日に第3装甲軍がクリンを攻略しモスクワ運河に橋頭保を構築、11月26日には第4装甲軍が鉄道の中継点であるイストラを攻略し11月30日にモスクワから8kmのヒムキに到達し、南部では第2装甲軍が工業都市トゥーラを包囲しミハイロフを攻略した。しかし11月末には、各所でドイツ軍の攻勢が頓挫。南部からモスクワを目指した第2装甲集団はトゥーラを落とせないまま、これを迂回して前進を継続していたが、モスクワ南方を流れるオカ川の線で前進を阻止された。北方から進撃した第3装甲集団は北部の要衝クリンを制圧し前進したが、北部からのモスクワ突入はならなかった。西方正面では第4装甲集団がクレムリンから25kmの地点のモスクワ郊外にまで達し、前衛部隊はクレムリンの尖塔を眺める位置に(前線の工兵部隊はモスクワまで8kmの地点まで前進したことも)あった。例年よりも早く冬が到来しドイツ軍の進撃は完全に停止する。気温が零下20度以下にまで下がり、ドイツ軍の戦闘車両や火器は寒冷のため使用不能に陥った。ドイツ軍には兵士の防寒装備も冬季用のオイルも不足しており、車両や航空機も満足に動かせない状態となった。医療品の不足から凍傷にかかる兵士が続出した。特に軍靴は長距離進軍に耐えるため底に鋲が打ってあり、足に冷気を伝え凍傷の原因となった。対してソ連軍は靴底に鋲を打たないブーツを使い、兵士には一回り大きいサイズのブーツを支給し、隙間に新聞紙や藁を敷き詰める等、防寒装備は充実していた。ドイツ軍はソ連のモスクワ防衛の要衝・イストラを占領したが、翌日からソ連空軍の猛爆撃が始まり、制空権はソ連側にあった。10月25日のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出撃不能となった。
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