ドイツ軍のオランダ占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 06:35 UTC 版)
「オットー・フランク」の記事における「ドイツ軍のオランダ占領」の解説
しかし1940年5月10日早朝にドイツ軍がオランダへ侵攻した。オットーはその日通常通りに会社に出勤した。オットー以下社員たちは、暗澹たる空気の中でラジオ放送の混乱する情報を聞いていた。放送を聞くオットーの顔色は蒼白だったとミープは著書の中で回顧している。オランダ全土がドイツ軍によって占領され、25日にオランダ駐在国家弁務官として親衛隊中将アルトゥール・ザイス=インクヴァルトがオランダに派遣されてきた。 占領直後にはフランク家や会社経営に大きな影響は生じなかったが、同年10月22日には「ユダヤ人が経営者、若しくは共同経営者である企業、又は資本金の25%以上がユダヤ人の所有になっている企業はその旨を届け出よ。」との条例が公布された。オットーはこれに従ってオペクタ商会とペクタコン商会を登録する一方、「アーリア化」されることを防ぐためにヴィクトール・クーフレルとヤン・ヒース(ミープの恋人。二人は1941年7月に結婚)を仮の所有者とする偽装会社「ラ・サンテーズ」を設立した。この企業はいざという時にペクタコン商会の営業を引き継げるようになっていた。同社はのちに社名を「ヒース商会」に変更している。 1940年12月1日付けでオペクタ商会とペクタコン商会の社屋をプリンセン運河通り(オランダ語版)263番地の建物に移した。ここの「後ろの家」が後に隠れ家が作られる建物であった。 1941年3月12日に「経済の非ユダヤ化条例」が出されたのを機にオットーはペクタコン商会の株式をクレイマンに譲渡して名目上所有者から離れた。とはいえこの程度の偽装はドイツ当局にも見透かされ、ペクタコン社に解散命令が下っている。しかし管財人に指定された弁護士の手まわしで会社の在庫品や機械装置などを「ヒース商会」に売却することができた。「ヒース商会」の実際の企業運営は引き続きオットーが中心になって行っていた。一方オペクタ商会の方はポモジン工業の擁護のおかげで、オットーの辞職、クレイマンが社長・所有者になるという「自己アーリア化」の偽装のみで「ユダヤ人はもはやこの企業に何の影響力も及ぼしていない」ことが認められて解散も「アーリア化」も免れている。 1941年以降になると反ユダヤ主義立法とユダヤ人狩りが続々と行われるようになった。1941年8月29日にはユダヤ人はユダヤ人学校以外に通うことを禁止する法律が公布されている。これによりアンネとマルゴーはスタトスティンメルタイネンのユダヤ人中学校へ転校することとなった。 オットーは家族のためにドイツ軍の手の届かない所へ逃げることを考えていた。1941年4月30日にはアメリカの友人ネーサン・ストラウスjrに手紙を書き、アメリカへ亡命する手助けをしてほしいという手紙を書いている。しかしアメリカ政府がドイツ領事館を閉鎖した報復としてドイツ政府はドイツの支配領域にあるアメリカ領事館を閉鎖したため、アメリカへ逃れるためにはまず中立国への通過ビザを得なければならなかった。そのためキューバへの移住ビザを得ようと試みている。1941年12月1日、オットーはキューバへの単身ビザを認められているが、これが彼に届いたかどうかは不明である。いずれにしてもこの10日後、ドイツが米国に宣戦布告し、ビザはキューバ政府によりキャンセルされてしまった。また1942年1月20日にはイギリスへの移住も申請しているが、「申請は無期限に延期された」という通知を送り返されただけであった。 オットーは同じユダヤ人である相談役ファン・ペルスと話し合った結果、プリンセン運河通り263番地の建物の後ろの家に隠れることを決めた。しかしそのためには外部に協力者が必要であり、最も信頼する社員4人、クーフレル、クレイマン、ミープ、ベップにこのことを相談して協力をお願いした。ユダヤ人を匿えば彼ら自身も危険な立場になるにも関わらず、4人ともすぐさま同意してくれたとオットーは回顧している。会社の営業時間が終わった後、クリーニングないし修理のためという名目で少しずつ家具が隠れ家へ持ち込まれた。オットーは娘たちができるだけ不安少なく残されたわずかな期間の自由を楽しめるようにとアンネとマルゴーには隠れ家について何も言わなかった。 1942年6月12日(13回目のアンネの誕生日)にオットーはプレゼントとしてサイン帳をアンネに贈っている。表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている女の子らしいサイン帳であった。アンネはこれを最初の日記帳として使用することとなる。
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