ドイツ軍による橋の爆破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 06:11 UTC 版)
「レマーゲンの戦い」の記事における「ドイツ軍による橋の爆破」の解説
アメリカ軍の部隊がレマーゲンを見下ろす尾根に到着した直後、町の近くの西岸にいたドイツ軍は、敵の装甲部隊の接近を警戒し、橋を渡って急いで戻ってきた。ブラトゲは一刻も早く橋を破壊したかったが、彼はまず午前11時15分に指揮を執ったばかりのハンス・シェラー少佐から書面による許可を得なければならなかった。アメリカ軍が到着する頃には、国民突撃隊のほとんどが降伏してしまい、ドイツ軍の主力はライン川の東側に残されていた。書面による許可が必要だったのは、1944年10月14日から15日にかけて、アメリカ軍の爆弾がケルンのミュールハイム橋の解体装置を収めた部屋を直撃し、橋を早々に破壊してしまったからである。この事件に激怒したヒトラーは、「責任者」を軍法会議で処罰するように命じた。ヒトラーはまた、連合軍が橋の8km以内に入った最後の瞬間まで解体用の爆薬を設置してはならないと命じた:548。 橋は担当将校からの書面による命令の後にのみ、可能な限り最後の手段として解体されるべきである、という命令により、橋の破壊を担当する将校は橋をすぐに爆破した場合と、まったく爆破できなかった場合の結果について神経質になっていた。 シェラー少佐は、橋の防御が不十分であることを知り、5人の兵士と機関銃を搭載した車など、通りすがりのドイツ軍部隊を登用しようとしたが、多くは無視したまま橋を渡り相手にされなかったという。シェラーは、橋を守れないと判断し、破壊しようとしていたが、カール・ペータース中尉が橋を渡るための時間延長を訴えた。ペータースは第3対航空機訓練および試験師団の指揮を執っていたが、この部隊は新開発の極秘兵器Hs297を装備していた。これは24発の高速対空ロケットを驚異的な精度で発射することができ、ペータースはそれが敵の手に渡ることを許さなかったためである:214。シェーラーは砲兵が不足していることを知っており、爆薬を設置するのを一旦、中止した:215。 カール・フリーゼンハーン工兵大尉は工兵及び艦橋の指揮官であり、解体用の爆薬を担当していた。ブラトゲ大尉は600kgの軍用爆薬を要求していたが、3月7日の午前11時には要求された量の半分の300kgしか受け取っていなかった。さらに悪いことに、主に鉱山で使われる硝酸アンモニウムベースの工業用爆薬である「ドナリット」が送られてきたことがわかった。他に選択肢がなかったため、ブラトゲは爆薬のすべてを橋の南東の橋脚に設置するように命令した。午後2時、アメリカ軍の最初の部隊が橋の西側に近づくと、ドイツ軍の工兵部隊は堤防と橋をつなぐアーチの下で爆薬を爆発させ、戦車や歩兵の動きを鈍らせることを期待して、道路に9.1mのクレーターを作った:1642。シェラーとブラトゲは、起爆装置を制御する電気スイッチがある鉄道トンネルに入り、フリーゼンハーンは彼らの後を追ったが、トンネルに入る前に爆発した砲撃により気を失った。15分後、気を取り直したフリーゼンハーンはそのままトンネルへ向かった。一方のブラトゲは、フリーゼンハーンに橋を爆破するように叫び、フリーゼンハーンはエルペルの丘の下、ほぼ90°に曲がった長さ370mのトンネルの向こう側にいるシェラーから書面で命令を受けなければならないと答えた。ブラトゲは走ってシェラーを探しに行き、書面で命令を受け、フリーゼンハーンに爆薬を爆発させるように言って戻ってくると、今度はフリーゼンハーンがブラトゲに書面で命令を下すように要求した:215。
※この「ドイツ軍による橋の爆破」の解説は、「レマーゲンの戦い」の解説の一部です。
「ドイツ軍による橋の爆破」を含む「レマーゲンの戦い」の記事については、「レマーゲンの戦い」の概要を参照ください。
- ドイツ軍による橋の爆破のページへのリンク