ドイツ軍によるベルギー侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:37 UTC 版)
「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「ドイツ軍によるベルギー侵攻」の解説
詳細は「ドイツ軍によるベルギー侵攻 (1914年)(英語版)」を参照 「リエージュ包囲戦」および「アントウェルペン包囲戦 (1914年)(英語版)」も参照 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} アントウェルペン ナミュール ブリュッセル イーペル リエージュ アーヘン ベルギーにおける関連地(注:国境線は現代のもの) ベルギーは各国が総動員を発令し戦時体制をとる中、8月1日正午、ベルギー王国はアルベール・ド・バッソンピエール男爵を、駐白ドイツ大使館に派遣し動向を探らせたが、クラウス・フォン・ベロウ=ザレスキエ(ドイツ語版)大使は「何も心配いりません」と返答した。8月2日、ドイツがルクセンブルクに侵攻する中、ジュリアン・ダヴィニョン(英語版)外相は再度駐白ドイツ大使館を訪問し、ベロウ大使から「隣の家が焼けても、あなたの家は大丈夫だ」と回答を受けた。この会談の後、ベロウは本国からの開封指示により、7月29日時点で受け取っていた封書を開封してドイツ軍の通行権を要求する最後通牒をベルギー外務省に提出した。 8月2日午後7時に、上記の最後通牒を受け取ったベルギー国王アルベール1世は、同日午後9時の閣議で「ベルギーは道ではない、国だ」と発言し、中立国としてこれを明確に拒絶した。ベロウはアーヘンに急行し、ベルギー抗戦の意思を伝えた。また、アルベール1世はリエージュのマース川(仏:ムーズ川)の橋梁や、ルクセンブルク国境の橋梁及び鉄道を破壊させた。 ベルギーの中立自体は1839年のロンドン条約によってイギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシアから保証されていた。古証文ではあるが、アルベール1世は局外中立が可能と信じていた。中立の実質はイギリスの国益から生じたもので、ベルギーを含むフランダース地方とオランダのいわゆる低地諸国(ネーデルラント)を一強国の支配に任せたくないという意図からである。アルベールはしかし中立自体に価値を置き、どの他国の侵犯に対しても徹底的に抗戦するつもりだった。 しかしながら、国王の勇ましい発言とは裏腹に当時のベルギー軍は長期間の中立と勢力を増した社会主義政党の軍事軽視ないし無関心により、とても整備されていたとは言えない状況であった。参謀本部の将校は主としてフランスで教育を受けており、攻撃精神ばかり身につけ、ベルギーの実状とはかけ離れた攻勢作戦計画ばかりを練っていた。当時の西欧諸国で経済力に見合った形での軍事能力としてはおそらく最悪であり、開戦時、現役兵4万8000人と予備役10万人でスタートしたがこれでは6個師団と要塞守備隊は充足できない。装備も旧式で、軍服に至ってはナポレオン時代の物を使いまわしている有様であった。 ドイツ第1軍(司令官クルック)と第2軍(司令官ビューロウ)は1914年8月4日にベルギーに侵攻した。 ベルギーにおける最初の戦闘はリエージュ包囲戦である。リエージュ要塞の周囲には複数の堡塁が構築されており、予想しなかった抵抗に遭遇したドイツ軍は、8月5日に一度撃退されたため民間児への殺戮を行った。さらに、8月6日にはツェッペリン飛行船による空爆を行って、翌8月7日にリエージュ陥落に成功した。ベルギー軍はアントウェルペン(英:アントワープ)およびナミュールへと後退した。この戦いによって、ドイツ軍の進撃が2日間遅延し、その結果、連合国側が交戦準備を整えることが出来たとされている。 ドイツ軍はアントウェルペンを回避して進撃したが、これにより後背に危険が残されることになった。ナミュールは23日に陥落した(ナミュール包囲戦(英語版))。 8月中にアルベール1世らはフランスのル・アーヴルに亡命し、亡命政府を樹立した。ドイツ軍は、10月までにアントウェルペンや首都ブリュッセルをも陥落させた。 ベルギー軍の抵抗自体は軽微な物であったが、ドイツ軍にとっては想定外でありこの遅延はシュリーフェン・プランに大きな狂いを生じさせ始めていた。シュリーフェン・プランはロシア軍の動員力の遅れを前提に作られており、ロシア軍が動員を完了させる前に迅速に西部戦線の英仏軍を撃破しなければならなかった。そのため、連日の強行軍により兵士たちは憔悴しきっており、更にベルギーの軍民が国内の鉄道網を破壊したため、シュリーフェン・プランに基づいた左翼から右翼への輸送が困難となった。
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