ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春の意味・解説 

ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:45 UTC 版)

クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事における「ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春」の解説

スターリンスタフカ代表レフ・メフリスは、パルパック地峡退却したクリミア方面軍早急に攻勢にでるよう要求したが、軍は1月戦闘打撃受けていて、攻勢出られる状況にはなかった。1月20日ケルチ海峡氷結し開設され氷上道路タマン半島ケルチ半島直結されると、コーカサスから増援ひっきりなしに流れ込むようになり、クリミア方面軍の第51軍と第44軍(ステパン・チェルニアク中将)は、2月末には攻勢出られるまでに戦力回復したソ連クリミア方面軍は、2月27日から4月中旬まで、4回に渡ってパルバック地峡ドイツ軍防衛線を突破すべく総攻撃行ったが、防御有利な地形で、戦線若干へこませる事が出来たけだったクリミア方面軍1月から4月までのケルチ半島での一連の戦闘で、約352,000人の損害出した3月ケルチ海峡氷結溶け4月になってドイツ空軍ケルチ海峡機雷敷設し海上パトロール強化するソ連クリミア方面軍補給苦しくなった。スタフカでは、ケルチ半島から撤退すべきとの意見出たが、スターリン拒否した1942年夏のドイツ軍戦略は、ブラウ作戦コーカサス攻略目指すものであったが、その前に準備的作戦として、ハリコフ南方のバルベンコボ突出部の除去クリミア占領必要だった。その為にマンシュタインケルチ半島からソ連軍駆逐するTrappenjagd作戦(英語名 Bustard Hunt)が計画された。作戦開始前に、VIII航空軍団(ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将)は秘密裏400機を越え作戦機クリミア展開した。この部隊は、Ju87やHs129Bを多数保有しており、地上支援攻撃能力強力だったソ連軍は、このドイツ空軍大量展開を事前に検知できなかった。パルパック地峡対峙する両軍地上軍は、ソ連軍ドイツ軍に対して2倍近い量的優位だった5月8日に、ドイツ軍の攻勢開始された。作戦初日ドイツ空軍ソ連空軍圧倒し戦場上空制空権ドイツ軍握った初日ドイツ空軍出撃総数は、2100回に及んだドイツXXX軍団準備爆撃のあと、黒海側のソ連44軍の防衛陣地攻撃した同時に強襲舟艇で第44軍陣地線背後4km海浜に、1個連隊相当を上陸させた。8日午前のうちにソ連44第一線陣地多くドイツ軍の手落ち工兵対戦車壕地雷処理と埋め立て始めた。チェルニアクは、7台のKV-1を含む98両の戦車反撃かけようとしたが、集結地点ドイツ空軍に発見され粉砕された。対戦車壕クリアされるとマンシュタインは、グロデック戦闘団黒海側の戦線突破口投入した9日午後に、第22装甲師団XXX軍団戦線左翼投入されアゾフ海めざして進撃始めたコズロフは、21両のKV-1を含む53両の戦車で、第22装甲師団進撃阻止しようとしたが、ドイツ空軍に発見され攻撃を受け、反撃失敗した。第22装甲師団ソ連51軍の背後通り10日午後にアゾフ海到達しソ連51軍は包囲されてしまった。ドイツ空軍激し空爆ソ連軍野戦電話網はずたずたになっており、コズロフ事態把握するよりドイツ軍進撃速い状況だった。パルパック地峡ケルチの間で防衛可能な線は、Turkish Rampart呼ばれる中世からの要害線で、コズロフはそこでドイツ軍止めようとしたが、ソ連軍部隊配置より早くグロデック戦闘団10日夕刻にその南部到達していた。11日に、包囲された第51軍の8個師団降伏してしまった。ソ連軍指揮系統崩壊に近い状態になり、第44残余と第47軍の各部隊は、唯一の舗装道路フェオドシア=ケルチ道路上を先を競って退却し始めたが、それはドイツ空軍格好餌食になった14日には、ドイツ軍主力ケルチ西郊到達しソ連軍アゾフ分艦隊使って海峡越えの緊急撤退行ったが、ドイツ空軍襲撃をうけて大損害をだした。アゾフ分艦隊は、37,000人から70,000人の間の兵員撤収させることができたが、クリミア方面軍は、展開した25万人兵員のうち147,000人の捕虜28,000人の死者をだし、18師団のうち9個師団全滅し残りの9個師団残余記録された。一方ドイツの2個軍団損害は、7588人(死者行方不明1703人を含む)だった。20日には、ケルチ周辺掃討終了し、再びソ連軍ケルチ半島から一掃されてしまった。 スターリンがこの大失態を許すはずもなく、空襲受けた傷がもとで死亡したルボフを除く各司令官コズロフ、メフリス、チェルニアク、コンスタンチン・コルガノフ少将(第47軍司令官)、イェフゲニー・ニコラエンコ少将(クリミア方面軍航空隊司令官)は、全員解任され降格処分となった

※この「ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春」の解説は、「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の解説の一部です。
「ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春」を含む「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事については、「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春」の関連用語

1
6% |||||

ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのクリミアの戦い (1941年-1942年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS