ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春
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「クリミアの戦い (1941年-1942年)」の記事における「ドイツ軍によるケルチ奪回 - 1942年春」の解説
スターリンとスタフカ代表レフ・メフリスは、パルパック地峡に退却したクリミア方面軍に早急に攻勢にでるよう要求したが、軍は1月の戦闘で打撃を受けていて、攻勢に出られる状況にはなかった。1月20日にケルチ海峡は氷結し、開設された氷上道路でタマン半島とケルチ半島が直結されると、コーカサスから増援がひっきりなしに流れ込むようになり、クリミア方面軍の第51軍と第44軍(ステパン・チェルニアク中将)は、2月末には攻勢に出られるまでに戦力を回復した。 ソ連クリミア方面軍は、2月27日から4月中旬まで、4回に渡ってパルバック地峡のドイツ軍防衛線を突破すべく総攻撃を行ったが、防御に有利な地形で、戦線を若干へこませる事が出来ただけだった。クリミア方面軍は1月から4月までのケルチ半島での一連の戦闘で、約352,000人の損害を出した。 3月にケルチ海峡の氷結が溶け、4月になってドイツ空軍がケルチ海峡に機雷を敷設し海上パトロールを強化するとソ連クリミア方面軍の補給は苦しくなった。スタフカでは、ケルチ半島から撤退すべきとの意見も出たが、スターリンは拒否した。 1942年夏のドイツ軍戦略は、ブラウ作戦でコーカサスの攻略を目指すものであったが、その前に、準備的作戦として、ハリコフ南方のバルベンコボ突出部の除去とクリミアの占領が必要だった。その為に、マンシュタインのケルチ半島からソ連軍を駆逐するTrappenjagd作戦(英語名 Bustard Hunt)が計画された。作戦開始前に、VIII航空軍団(ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将)は秘密裏に400機を越える作戦機をクリミアに展開した。この部隊は、Ju87やHs129Bを多数保有しており、地上支援攻撃能力は強力だった。ソ連軍は、このドイツ空軍の大量展開を事前に検知できなかった。パルパック地峡で対峙する両軍の地上軍は、ソ連軍がドイツ軍に対して2倍近い量的優位だった。 5月8日に、ドイツ軍の攻勢は開始された。作戦初日にドイツ空軍はソ連空軍を圧倒し、戦場上空の制空権はドイツ軍が握った。初日のドイツ空軍の出撃総数は、2100回に及んだ。ドイツXXX軍団は準備砲爆撃のあと、黒海側のソ連第44軍の防衛陣地を攻撃した。同時に、強襲用舟艇で第44軍陣地線背後約4kmの海浜に、1個連隊相当を上陸させた。8日の午前のうちにソ連第44軍第一線陣地の多くはドイツ軍の手に落ち、工兵は対戦車壕の地雷処理と埋め立てを始めた。チェルニアクは、7台のKV-1を含む98両の戦車で反撃をかけようとしたが、集結地点をドイツ空軍に発見され粉砕された。対戦車壕がクリアされるとマンシュタインは、グロデック戦闘団を黒海側の戦線突破口へ投入した。9日の午後に、第22装甲師団はXXX軍団戦線左翼へ投入されアゾフ海をめざして進撃を始めた。コズロフは、21両のKV-1を含む53両の戦車で、第22装甲師団の進撃を阻止しようとしたが、ドイツ空軍に発見されて攻撃を受け、反撃は失敗した。第22装甲師団はソ連第51軍の背後を通り10日午後にはアゾフ海へ到達し、ソ連第51軍は包囲されてしまった。ドイツ空軍の激しい空爆でソ連軍の野戦電話網はずたずたになっており、コズロフが事態を把握するよりドイツ軍の進撃が速い状況だった。パルパック地峡とケルチの間で防衛可能な線は、Turkish Rampartと呼ばれる中世からの要害線で、コズロフはそこでドイツ軍を止めようとしたが、ソ連軍の部隊配置より早くグロデック戦闘団は10日夕刻にその南部に到達していた。11日に、包囲された第51軍の8個師団は降伏してしまった。ソ連軍の指揮系統は崩壊に近い状態になり、第44軍残余と第47軍の各部隊は、唯一の舗装道路フェオドシア=ケルチ道路上を先を競って退却し始めたが、それはドイツ空軍の格好の餌食になった。14日には、ドイツ軍主力はケルチの西郊に到達し、ソ連軍はアゾフ分艦隊を使って海峡越えの緊急撤退を行ったが、ドイツ空軍の襲撃をうけて大損害をだした。アゾフ分艦隊は、37,000人から70,000人の間の兵員を撤収させることができたが、クリミア方面軍は、展開した約25万人の兵員のうち147,000人の捕虜と28,000人の死者をだし、18個師団のうち9個師団は全滅し、残りの9個師団も残余と記録された。一方、ドイツの2個軍団の損害は、7588人(死者・行方不明1703人を含む)だった。20日には、ケルチ周辺の掃討は終了し、再びソ連軍はケルチ半島から一掃されてしまった。 スターリンがこの大失態を許すはずもなく、空襲で受けた傷がもとで死亡したルボフを除く各司令官、コズロフ、メフリス、チェルニアク、コンスタンチン・コルガノフ少将(第47軍司令官)、イェフゲニー・ニコラエンコ少将(クリミア方面軍航空隊司令官)は、全員解任され降格処分となった。
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