ドイツ軍でのインド人義勇部隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 00:07 UTC 版)
「インド国民軍」の記事における「ドイツ軍でのインド人義勇部隊」の解説
チャンドラ・ボースは日本に移る前にも、1941年からナチス政権下のドイツで志願兵部隊 (Indische Legion) を編制する仕事をしていた。 1920年代の初期ナチ党において人種主義的側面の薄いナチス左派を中心にインドの反英闘争を支援しようとする運動が存在した。しかしナチス右派のアドルフ・ヒトラーはヒンドゥー教の神秘主義の影響を受けながらもインド人を「劣等人種」と看做していた。政権獲得後もイギリスからのインド独立に反対し、イタリアの国家ファシスト党がガンディーやチャンドラ・ボースらインド独立運動に好意的であった事や、日本が同じ有色人種としてインド人解放を主張していた事とは対照的だった。しかしヒトラーの思惑とは別に国防軍内では対英作戦の一環としてインド人支援の検討を続けていた。 1940年にソ連経由でベルリンを訪問したチャンドラ・ボースの働きかけが行われた後、1941年12月にインド人兵の捕虜数百名を中心としたインド人兵団がフランケンベルクで組織された。1942年9月、第950歩兵大隊として正式にドイツ国防軍に編入され、1943年頃にはインド系とされた英軍捕虜2593名(ヒンドゥー教徒1503名、シーク教徒516名、イスラム教徒497名、その他77名)から3個大隊が編成されて連隊規模となった。彼らはソ連領カフカス山嶺を越えイギリス領インドに攻め入る際の戦力として想定されていたが、実際に作戦が展開されることはなかった。連隊の側でも「インドへの道」以外でドイツ軍に協力することを疑問視する兵士が多く、ベルギーやオランダへの移動に従わなかった47名の義勇兵が軍法会議に掛けられている。 チャンドラ・ボース自身も目的実現の方法としてドイツ軍に見切りをつけて大島浩駐独大使と通じて日本へ渡ってしまい、残された第950歩兵連隊は東方大隊など他の義勇部隊と大西洋の壁に守備戦力として貼り付けられ、ビスケー湾の守備というインド解放とはほど遠い任務に従事した。やがてノルマンディー上陸作戦を契機に西部戦線が総崩れになると、第950歩兵連隊も人員と装備のほとんどを失ってフランスからドイツに敗走した。それでもなお生き延びた隊員は、国防軍から兵員不足に悩んでいた武装親衛隊の外国人部隊として移管され、1944年8月にSS義勇インド軍団 (Indische Freiwilligenlegion der SS) が編成された。 だが、武装親衛隊が忠誠を誓うアドルフ・ヒトラーは、インド人捕虜を戦力化することにも不満を口にし、「シラミも殺せないインド人など自分が食われてしまえばよいのだ!」と吐き捨てるような言葉を残している。ベルリンの戦いが迫る中、ヒトラーは「武器の余裕がもはや無い以上、こんな冗談には付き合いきれない」と発言し、SS作戦指導本部も再編された第18SS義勇装甲擲弾兵師団『ホルスト・ヴェッセル』にインド人部隊の重火器を引き渡す命令を下し、ヒトラーにとって最後の戦いにインド人部隊の参加は許されなかった。それでも第950歩兵連隊時代を含めて、戦後インドでは祖国独立のために戦った人々して名誉ある帰還を果たしている。
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