ドイツ軍3度目の反撃、そして降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 05:29 UTC 版)
「ブダペスト包囲戦」の記事における「ドイツ軍3度目の反撃、そして降伏」の解説
ヒトラーはドイツ軍指揮官カール・プフェッファー=ヴィルデンブルッフが包囲から脱出することもしくはブダペストから撤退することを禁ずる命令を改めて出した。しかし、補給物資を運ぶグライダーによる輸送は数日前に終了、さらにパラシュートによる物資投下も中止されていた。 もはや望みがなくなったことを悟ったプフェッファー=ヴィルデンブルッフは独断で包囲網からの脱出を決定した。通常、ドイツ軍指揮官はハンガリー軍部隊を併せて指揮し、ハンガリー軍指揮官の意見を聞くことなどしなかったが、この時ばかりは、異例なことにプフェッファー=ヴィルデンブルッフはこの最後となる決死の脱出劇にハンガリー軍指揮官、イヴァーン・ヒンディ (Iván Hindy) を引き入れた。 2月11日夜、ドイツ・ハンガリー将兵28,000名が城の丘からの撤退を開始した。彼らは3波に分かれて行動、それぞれ何千人もの民間人を含んでおり、家族らは乳母車を押して雪や氷の上を進んだ。しかし、赤軍はすでにこれに対処するべく、待ち伏せを行っていた。 ドイツ・ハンガリー将兵は民間人らとともに霧を効果的に利用して撤退した。第一波は待ち伏せしていた赤軍将兵と火砲を驚かせることとなり、その多くが撤退することができた。第二波、第三波は運が無く、赤軍の火砲、カチューシャロケット砲による攻撃で大勢の死傷者が出たにも関わらず、5,000から10,000名がブダペスト北西の森へ脱出に成功、ウィーンへと退却、ドイツ将兵約700名は脱走した。 大部分の逃亡者が赤軍の攻撃により、戦死・負傷、そして捕虜となった。ドイツ軍指揮官プフェッファー=ヴィルデンブルッフ、ハンガリー軍指揮官ヒンディらも脱出の際に重傷を負い赤軍の捕虜となった。 1945年2月13日、残存していたブダペスト防衛部隊はついに降伏した。ブダペストの町で破壊、もしくは損害を受けた建物は80パーセントにおよび、その中には伝統あるハンガリー国会議事堂、ブダペスト城も含まれていた。そしてドナウ川に架かっていた5つの橋の全部が破壊された。 ドイツ軍、ハンガリー軍の損失は激しく、全師団が撃破された。最小に見積もっても、第13装甲師団 (en)、第60装甲擲弾兵師団フェルトヘルンハレ (en)、第8SS騎兵師団 フロリアン・ガイエル、第22SS義勇騎兵師団らはほとんどが壊滅した。そして、ハンガリー第1軍団も壊滅、第10歩兵師団、第12歩兵師団、第1装甲師団が殲滅された。 飢餓、もしくは病気で死亡した民間人は確定ではないが、約40,000名と見積もられる。また他国の赤軍占領地域でもそうであったように、一般兵士から将官までもが略奪・暴行に参加し、10歳から70歳まで、およそ目に付く殆どの女性が強姦された。
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