対英作戦(1770年代 - 1780年代)
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「ピエール・アンドレ・ド・シュフラン」の記事における「対英作戦(1770年代 - 1780年代)」の解説
1778年と1779年に、シュフランはアジア・アメリカ方面海軍中将(Vice-Amiral ès Mers d'Asie et d'Amerique)デスタン提督の下で戦隊の一部を構成し、北アメリカ沿岸および西インド諸島の作戦に従事した。彼は自ら戦隊を率いて、イギリスのジョン・バイロン提督とグレナダ沖で交戦した(グレナダの海戦)。その戦いでシュフランの艦「ファンタスク(Fantasque)」(64門)は62名を失った。彼のデスタン提督への手紙は、彼がデスタン提督の煮え切らない戦い方に強い不満を持っていたことを教えてくれる。 1780年に、軍艦「ゼール(Zèle)」の艦長だったシュフランは、フランス・スペイン連合艦隊の一員として、大西洋で大きなイギリスの輸送船団を捕獲した。上司に対する率直さは、デスタンの意見書においてシュフランに不利に働くことはなかった。 シュフランが5隻の戦列艦からなる戦隊を指揮して、フランスとスペインに味方したオランダを助け、予測されるイギリスの攻撃から喜望峰を守り、その後東インドに進出する任務に抜擢されたのは、デスタン提督の助言によるところが大きかったと言われている。 3月22日、シュフランはブレストから、フランスの提督の中で彼に特異な地位を与えることになる航海に出帆した。それはまた、海上での指揮官として第一級の存在とするものでもあった。シュフランの生来の特質は、有能であることよりもむしろ熱血漢であることにあった。直近の2つの戦争で彼の国の海軍に降りかかった災厄は、シュフランも知っていたように、不適切な管理と臆病な指揮に起因するものであり、彼はその名誉を取り戻したいという熱烈な願望を抱いていた。シュフランは経験からだけでなくその気性から、同僚たちのやり方 - フランス海軍は、イギリスの船を奪うことよりも自らの船の保全を第一に考えていた - に我慢がならなかった。シュフランは、フランスの勢力を元に戻すことは無理としても、成功を積み重ねることによって自国が名誉ある講和を実現できることを希望していた。1781年4月16日、ポルトガル領カーボベルデ諸島のポルト・プラヤの錨泊地で、彼は喜望峰へ向かうジョージ・ジョンストン代将(一般には「総督」として知られる)率いるイギリス艦隊を発見した。 ラゴスの海戦のとき、ボスコーエンがポルトガルの中立をいささかも尊重しなかったことを覚えていたシュフランは、直ちに攻撃を開始した。このポルト・プラヤの海戦では、シュフランは他からの支援を得られない状況で、自らの損害と同等の傷を相手に負わせ、イギリスに対して、彼らがそれまでに知っていたフランス提督とは大いに異なるタイプの軍人を相手にせざるを得なくなったことを知らしめた。彼は喜望峰まで追撃して、ジョンストンによる占領を阻止すると、フランスが保持していたイル・ド・フランス(モーリシャス)へと進出した。シュフランの上官であるM・ドルヴは指揮下の11隻の戦列艦からなる連合戦隊でベンガル湾へ赴く途中で死亡した。
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