対英作戦とは? わかりやすく解説

対英作戦(1770年代 - 1780年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/19 16:59 UTC 版)

ピエール・アンドレ・ド・シュフラン」の記事における「対英作戦(1770年代 - 1780年代)」の解説

1778年1779年に、シュフランはアジア・アメリカ方面海軍中将(Vice-Amiral ès Mers d'Asie et d'Amerique)デスタン提督の下で戦隊一部構成し北アメリカ沿岸および西インド諸島作戦従事した。彼は自ら戦隊率いてイギリスジョン・バイロン提督グレナダ沖で交戦したグレナダの海戦)。その戦いシュフランの艦「ファンタスク(Fantasque)」(64門)は62名を失った彼のデスタン提督の手紙は、彼がデスタン提督煮え切らない戦い方に強い不満を持っていたことを教えてくれる。 1780年に、軍艦ゼール(Zèle)」の艦長だったシュフランは、フランス・スペイン連合艦隊一員として、大西洋で大きなイギリス輸送船団捕獲した上司対す率直さは、デスタン意見書においてシュフラン不利に働くことはなかった。 シュフランが5隻の戦列艦からなる戦隊指揮してフランススペイン味方したオランダ助け予測されるイギリス攻撃から喜望峰守りその後東インド進出する任務抜擢されたのは、デスタン提督助言によるところが大きかったと言われている。 3月22日シュフランブレストから、フランス提督の中で彼に特異な地位与えることになる航海出帆した。それはまた、海上での指揮官として第一級存在とするものでもあった。シュフラン生来特質は、有能であることよりもむしろ熱血漢であることにあった直近の2つ戦争彼の国海軍降りかかった災厄は、シュフラン知ってたように不適切管理臆病な指揮起因するものであり、彼はその名誉を取り戻したいという熱烈な願望抱いていた。シュフラン経験からだけでなくその気性から、同僚たちやり方 - フランス海軍は、イギリスの船を奪うことよりも自らの船の保全第一に考えていた - に我慢がならなかった。シュフランは、フランス勢力元に戻すことは無理としても、成功積み重ねることによって自国名誉ある講和実現できることを希望していた。1781年4月16日ポルトガル領カーボベルデ諸島のポルト・プラヤの錨泊地で、彼は喜望峰へ向かうジョージ・ジョンストン代将一般には「総督」として知られる率いイギリス艦隊発見したラゴスの海戦のとき、ボスコーエンがポルトガル中立いささかも尊重しなかったことを覚えていたシュフランは、直ち攻撃開始した。このポルト・プラヤの海戦では、シュフランは他からの支援得られない状況で、自らの損害同等の傷を相手に負わせ、イギリスに対して、彼らがそれまで知っていたフランス提督とは大い異なタイプ軍人相手にせざるを得なくなったことを知らしめた。彼は喜望峰まで追撃してジョンストンによる占領阻止すると、フランス保持していたイル・ド・フランスモーリシャス)へと進出したシュフランの上官であるM・ドルヴは指揮下の11隻の戦列艦からなる連合戦隊ベンガル湾赴く途中で死亡した

※この「対英作戦(1770年代 - 1780年代)」の解説は、「ピエール・アンドレ・ド・シュフラン」の解説の一部です。
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