対英戦での苦戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:50 UTC 版)
対英戦は参戦2日後にクレタ島海域でイタリア潜水艦がイギリスの巡洋艦を沈めたことで始まり、フランス降伏によって地中海は英伊両軍の戦場となった(地中海の戦い)。 大規模な海戦が最初に発生したのは、1940年6月10日、リビアから帰還する途上にあったイタリア海軍の護衛艦隊(戦艦2隻・重巡洋艦6隻・軽巡洋艦8隻)と、護送の最中だったイギリス海軍の護衛艦隊(戦艦3隻・空母1隻・駆逐艦16隻)とが、カラブリア半島のプンタ・スティロ(イタリア語版)沖で偶発的に遭遇して起きた戦闘である(カラブリア沖海戦)。この戦いは英空母艦載機の空襲を伊巡洋艦の対空砲火が退けたところから始まり、戦艦同士の砲戦でイタリア戦艦一隻が損傷する一方、イタリア艦隊は英艦隊にほとんど損害を与えることができないまま撤退した。この戦いの際にイタリア空軍と海軍との連携ミスが明らかになってしまい、これを知ったイギリス海軍は、以降大胆な航空作戦を仕掛けて来るようになった。一方のイタリア海軍は、日を追うごとに深刻さを増す燃料事情も相まってますます艦隊行動を制限するようになり、スパダ岬沖海戦など幾つかの小規模な海戦を除けば殆ど海戦を避けるようになった。 イタリア海軍はイタリア半島南端のターラント海軍基地に主力艦艇を集結させ、イギリス海軍を牽制する策(現存艦隊主義)に出たが、これは完全な裏目となった。イギリス海軍は、先の海戦で知った「イタリア海軍は空軍と上手く連携出来ていない」という弱点を突き、小規模な航空隊にターラントを奇襲させたのである(タラント空襲)。この攻撃では、イギリス側の予想通り、イタリア空軍は海軍の要請に直ぐに応えることが出来ず、旧式戦艦1隻が撃沈、旧式戦艦と新たに竣工していた新型戦艦1隻がそれぞれ大破してしまうという結果に終わった。この戦いは、海戦の主力が、大型砲戦艦艇から航空機と空母へと移り変わったことを示したが、それが分かったとしてもイタリアの工業力では航空艦隊の新造など到底叶わぬことであり、本拠地をナポリに移した海軍は、より一層消極的になっていった。 1941年4月、前年にアルバニアからギリシャに侵攻(ギリシャ・イタリア戦争)したものの苦戦していたイタリアを支援するため、ドイツはギリシャに侵攻した(ギリシャの戦い)。それに対してイギリスは、ギリシャを支援するための援軍を派遣したが、この派遣軍は海を隔てたエジプトから補給を受けていた。このためドイツは、その補給路を断つことをイタリア海軍に対して強く要請し、要請を断り切れなかったイタリア海軍は渋々に大規模な出撃を行うが、従前を上回る規模の空母と艦載機、そして最新式のレーダーを装備したイギリス海軍の前に、その双方を持たないイタリア海軍は全く歯が立たず、重巡洋艦3隻を失う大敗北に終わった(マタパン岬沖海戦)。これにより一度は地中海の制海権をイギリス側に完全に奪われてしまうが、イタリア海軍は、温存されていた戦艦隊を用いた強行突破で北アフリカ戦線の為の補給船団を届けたり、更に海軍の特殊部隊による破壊活動でアレクサンドリア沖に停泊していたイギリス戦艦2隻を大破させる(アレクサンドリア港攻撃)など、様々な努力で北アフリカとの補給線の維持に努めた。だがイギリス軍はマルタ島を拠点とする作戦活動で次第にこれを押さえ込み、戦いの中心はマルタ島への独伊空軍の空襲へと変化していった。
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