ドイツ軍による反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 16:56 UTC 版)
「レマーゲンの戦い」の記事における「ドイツ軍による反撃」の解説
3月7日、ルーデンドルフ橋がアメリカ軍によって占領されると、シェラー少佐は無線や電話で上層部と連絡を取ろうとしたが、どちらも使えなかった。彼は唯一の交通手段である自転車で直接報告に出向き、12時頃に第67軍団司令部に着いた。ブラトゲとフリーゼンハーンの両大尉は、トンネル内にいた部隊と共に既に降伏していた:216。他の部隊との通信がとれなかったため、この地域のドイツ軍は集められる限り、地元の部隊で反撃するしかなかった。しかし、すぐに利用できるような予備部隊はなく、この地域にいたドイツ軍のほとんどはまだ西岸にいてライン川を渡ろうとしていた。 B軍集団の司令官であるモーデルは橋がアメリカ軍に攻略されたことを知らず、この地域の多くの司令官と同様に彼も移動中にあり、モーデルの場合はアダーナッハで第4装甲師団によってライン川西岸に展開していた第6軍団と第7軍団の一部の救出に向かっていた。3月7日の夜、モーデルは連合軍が橋を渡ったことをようやく知り、ライン西岸から第15軍を脱出させることができるまで、第3軍管区の司令官ヨアヒム・フォン・コルツフライシュ将軍に指揮を任せることにした。コルツフライシュは約100名の空軍高射砲部隊、ヒトラー・ユーゲント、国民突撃隊、警察部隊を夜通し攻撃に投入させ、橋の破壊を試みたが、成功はしなかった。
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