ドイツ軍による軍法会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 06:11 UTC 版)
「レマーゲンの戦い」の記事における「ドイツ軍による軍法会議」の解説
ヒトラーは橋を失ったことに憤慨し、東部戦線から「狂信的で信頼のできる」ルドルフ・ヒュブナー(de)大将を呼び寄せ「西部地区移動特別法廷」(Fliegendes Sonder-Standgericht West)の司令官に任命させた。 ヒュブナーは橋の破壊に失敗した将校を軍法会議にかけ、処刑するよう指示した:204。ヒュブナーにはアントン・エルンスト・ベルガー中佐とポール・ペント中佐が同行していたが、彼らはいずれも法的な専門知識を持っておらず、実行部隊として行動する2人の憲兵とともにB軍集団司令部へ移動した。 3月11日、ドイツ軍の司法規則に反して、ヒュブナーは検事と裁判官を兼任した。B軍集団の法務担当官リヒター・ヤナート大佐は、ドイツ軍の司法手続きのコピーをヒュブナーに提供したが、ヒュブナーはそれを払いのけ、必要な権限は総統のみにあると主張した。橋の防衛隊指揮官ブラトゲ大尉はアメリカ軍に捕まっていたため、欠席裁判として裁かれた。ヒュブナーは橋を爆破する命令を遅らせたとの理由でブラトゲに死刑を宣告したが、ブラトゲは既にアメリカ軍の捕虜となっていたので刑は執行されなかった。ヒュブナーは次にシェラー少佐と、そのあとにカール・ハインツ・ペータース中尉を裁いた。シェーラーは、アメリカ軍が橋を攻撃する2時間前の午前11時15分に到着したばかりであり。ペータースは、実験用の高射兵器をライン川を渡って戻そうとしているところであった。しかし、シェラーは橋の爆破に失敗した罪、ペータースは対空兵器をアメリカ軍の手に渡した罪で有罪となった。彼らは翌日、リンバックにおいて銃殺され、墓に埋葬された。 シェーラーとペータースの判決が下された日、ヘルベルト・ストローベル少佐とアウグスト・クラフト少佐は、オーバーイルゼンにあるモデル陸軍元帥のオフィスに呼び出されたが、彼らに容疑がかかっていることは知らなかった。クラフトと彼の上官のストローベルは、ライン川の60kmを防衛するコブレンツ-レマゲン地区の戦闘工兵の責任者であった。第3建設工兵大隊の指揮官であるクラフトは、レマーゲンの橋に爆弾を仕掛けた。橋が占領されたとき、クラフトは40km離れたところにおり、ストローベルはクラフトに反撃を命じたが、完全に失敗に終わった。 3月17日、ヒュブナーは午前11時に2人に対して約20分間の裁判を行った。ヒュブナーはすぐに彼らを有罪とし、すぐに処刑するように命じた。2人は45分ほど家族に手紙を書く時間を与えられた後、森の中に護送され、午後1時に銃殺された。執行人らは彼らのポケットを空にし、家族の手紙を破り、彼らの遺体を土で覆い、そのまま放置した。 フリーゼンハーン少佐は捕らえられていたが、法廷では橋を破壊するために力の及ぶ限りのことをしたと認められたため、有罪にはならなかった。ヒトラーは他の4人の将軍を懲戒処分にした。ボンとレマーゲンの防衛司令官であるリヒャルト・フォン・ボスマー大将は、戦わずにボンを放棄したために起訴された。ボスマーは二等兵に降格された上、5年の懲役を言い渡された。ボスマーの妻はすでに亡くなっており、息子も戦死していた。3月10日、ボスマーは裁判所の職員が持っていた拳銃を奪い、法廷で自決した。 ヒトラーはアルベルト・ケッセルリンクを公認の防衛司令官に指名し、ケッセルリンクは「我々は不必要な損失を被り、我々の現在の状況はほとんど破滅的になってしまった」と述べ、彼らの失態を叱責している。
※この「ドイツ軍による軍法会議」の解説は、「レマーゲンの戦い」の解説の一部です。
「ドイツ軍による軍法会議」を含む「レマーゲンの戦い」の記事については、「レマーゲンの戦い」の概要を参照ください。
- ドイツ軍による軍法会議のページへのリンク