ドイツ軍の侵攻計画
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「ヴェーザー演習作戦」の記事における「ドイツ軍の侵攻計画」の解説
英仏がノルウェーの一部を占領する可能性を懸念したヒトラーは、1939年12月14日にOKW(国防軍最高司令部)に対してノルウェー侵攻計画の素案策定を始めるよう命じた。OKW作戦部次長ヴァルター・ヴァルリモント大佐の下、少数の幕僚によってまとめられたNordという名の研究案は、陸軍の1個師団のみしか参加しないものであった。1月に、OKWは海軍のテオドール・クランケ大佐をチーフとし、三軍より各分野の専門家を出させて、OKWの下で本格的な侵攻計画を練ることにしたが、秘密保持の為、異例なことにOKH(陸軍総司令部)やOKL(空軍総司令部)は計画立案からは排除され、立案グループは侵攻計画をヒトラーに直接報告する事になった。 計画の基本は、ノルウェー軍の動員センターのある都市を同時に奇襲し、ノルウェー軍の体制が整う前に圧倒して、反撃の余地を与えないことであった。主要攻撃目標は、以下の都市であった。エゲルサンには、大西洋への海底電線のステーションがあり、その占領が必要とされた。オスロ、ナルヴィク、ベルゲン、トロンハイム、クリスチャンサン、エゲルサンに、海軍艦艇に分乗した陸兵を派遣して、ヴェーザー時(侵攻時)に上陸し占拠する。 オスロ ベルゲン ナルヴィク トロンハイム スタヴァンゲル クリスチャンサン エゲルサン 1940年1月27日、最終的な計画にヴェーザー演習作戦というコードネームが付けられた。 1940年2月21日、ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト歩兵大将が作戦の司令官に選ばれた。ファルケンホルストは第一次世界大戦においてフィンランドで戦っており、極地での戦いに精通していた。その日から、ファルケンホルストとXXI軍団司令部の一部の参謀、クランケ・グループで作戦計画の見直しが行われた。 3月1日に、OKWはヒトラーの署名した総統指令10a(ヴェーザー演習作戦)を発令して、それまで、OKWと作戦立案者のみであった計画を三軍に公開したが、海軍を例外として、陸軍と空軍からは相当な反発があった。OKHやOKLの意向を反映して、第7降下猟兵師団や第22空輸歩兵師団などの精鋭師団は、作戦計画から落とされた。ヒトラーとOKWは統一司令部の設置を望んだものの、ゲーリングが強く反対したので、ファルケンホルストは陸上部隊に対してのみ指揮権を持ち、ファルケンホルストの司令は、OKW作戦部が海軍、空軍へ取り次ぐことになった。 Uボートも作戦の支援にまわすため、大西洋でのUボートの作戦ほぼすべてが停止された。何隻かの訓練用のものも含め投入可能な潜水艦はすべて、ヴェーザー演習作戦支援のハルトムート(Hartmut)作戦に投入された。 クランケ・グループによるオリジナル案ではノルウェーには侵攻するとともに外交手段でデンマークの飛行場を確保する計画であった。しかし、ファルケンホルストによる見直しでは、空軍の意向を反映して外交交渉による不確実性を排除するために、デンマークへも軍事侵攻することになった。デンマーク侵攻のため、2個歩兵師団と第11装甲擲弾兵旅団からなるXVI軍団が編成された。また、約1000機からなるX航空軍団が全作戦の支援を行う予定であった。 日照時間の関係から、作戦が可能なのは、4月15日までで、それ以降は、ナルヴィクやトロンハイムなどでは、夜が短すぎて奇襲要素は期待できないとされていた。
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