デンマーク侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 20:52 UTC 版)
「ヴェーザー演習作戦」の記事における「デンマーク侵攻」の解説
詳細は「デンマークの戦い」を参照 戦略上、ドイツにとってのデンマークの重要性は、ノルウェーでの作戦の足場としてであった。そしてもちろん何らかの方法で支配下におく必要がある隣国としてでもあった。バルト海との関係でデンマークの位置を見れば、ドイツやソ連への航路の支配という点でも重要であった。 狭く比較的平坦なデンマークの国土は、ドイツ陸軍の作戦において理想的なものであった。そして、デンマークの小規模な陸軍には希望はほとんどなかった。だが、朝早く少数のデンマーク軍がドイツ軍と交戦し、16名の死者と20名の負傷者を出した。ドイツ側の死傷者数は不明であるが、12両の装甲車などが破壊され、戦車4両が損傷した。また、ドイツの爆撃機1機も損傷した。短時間の戦闘の間、二人のドイツ兵が一時的にデンマーク側に捕えられた。 1940年4月9日の最初のドイツ軍のデンマーク侵攻の直前、ドイツの駐デンマーク大使セシル・フォン・レンテ=フィンク(de:Cécil von Renthe-Fink (Diplomat))はデンマークの外務大臣en:Peter Rochegune Munchに電話をし、会談を求めた。20分の会談後、レンテ=フィンクは、フランスとイギリスの攻撃からこの国を守るため現在ドイツ軍はデンマークに向かっていると述べた。そしてレンテ=フィンクは、デンマークは抵抗をすぐに止め、デンマーク当局とドイツ軍との間で連絡を取るよう要求し、もし要求が入れられない時はドイツ空軍が首都コペンハーゲンを空襲するであろうと述べた。 ドイツの要求が伝達された時、第1陣のドイツ軍は既に進軍を開始しており、4時15分にGedserにフェリーで上陸した部隊が北へ向かっていた。降下猟兵は抵抗を受けることなくオールボーの二つの飛行場やStorstrøm橋、Masnedøの要塞を占領した。 現地時間4時20分にドイツ軍の歩兵1000名が機雷敷設艦Hansestadt Danzigからコペンハーゲン港に上陸し、抵抗に会わずにthe Citadelのデンマーク軍駐屯地を素早く占領した。またデンマーク王族拘束のためドイツ軍は港からアマリエンボー宮殿へ向かった。ドイツ軍が到着した時、デンマークの近衛隊は既に警戒態勢にあり、別の増援部隊も向かっている最中であった。アマリエンボー宮殿に対するドイツ軍の最初の攻撃は撃退され、国王クリスチャン10世と大臣達は陸軍司令長官William Wain Priorと協議する時間を得られた。議論中、He111やDo 17の編隊が幾つか街の上空を飛行しOPROP!ビラを投下した。コペンハーゲン市民に対する爆撃の虞に直面し、戦闘継続に賛成なのはPrior将軍だけであり、8時34分に国内のことについての政治的独立の保持を条件にクリスチャン10世とデンマーク政府はすべて降伏した。 5時45分、ドイツ軍のBf 110がシェラン島Værløseの飛行場を攻撃した。デンマーク軍の対空砲火にもかかわらず、ドイツ軍は11機の航空機を破壊し、14機を大破させた。 デンマークの戦いは6時間未満で終わった。デンマークが素早く降伏したことで、しばらくの間は独特の寛大な占領政策がとられる事になった。
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