デンマーク人開拓者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 06:44 UTC 版)
「ソルバング (カリフォルニア州)」の記事における「デンマーク人開拓者」の解説
1850年から1930年に、かなりの数のデンマーク人が経済的な将来性の少ないデンマークを離れた。ある推計に拠れば、この期間にデンマーク人の10人に1人が、ほとんどアメリカ合衆国に移住した。デンマーク人開拓者にとって最も人気のあった目的地は、ユタ州、イリノイ州、ミネソタ州、アイオワ州、ネブラスカ州、サウスダコタ州だった。新しい町の多くで、影響力あるデンマーク人哲学者、聖歌作者、ルーテル教会牧師であるN・F・S・グルントヴィの考え方に従い、教会や学校が設立された。特にいわゆる民族学校で、自由、詩、訓練された創造性に基づく教育への新しい方法が導入された。民族学校はアイオワ州エルクホーン(1878年-1899年)、ミシガン州グラント(1882年-1888年)、ネブラスカ州ナイステッド(1887年-1934年)、ミネソタ州タイラー(1888年-1935年)、ノースダコタ州ケンメア(1908年-1916年)で設立され、最後がソルバング(1911年-1931年)だった。 宗教と教育についてデンマークの方法を最も熱心に提唱した一人が、1873年にオーフス近くのブラーブランで生まれたベネディクト・ノルデントフトだった。1898年に神学校を卒業した後、直ぐにアメリカ合衆国に行くよう誘われ、アメリカではミシガン州、オハイオ州、ニュージャージー州、ニューヨーク州、コネチカット州、マサチューセッツ州、およびメイン州のデンマーク系ルーテル教会の間の関係調整を始めた。1901年にはオーフス大聖堂で叙任されるためにデンマークに戻った。アメリカに戻ると、アイオワ州デモインの民族高校グランドビュー・カレッジで講師としての仕事を続けた。このカレッジはデンマーク・ルーテル教会が設立したものでもあった。1903年には学長に指名され、1910年にグルントヴィ派の仲間と意見が合わず、辞任させられるまで続けた。 ノルデントフトは1906年から、アイオワ州キンボールトンの牧師ジェンス・M・グレガーセン、およびグランドビューの説教師ペダー・P・ホルンシルトと共に、西海岸でルーテル教会と学校に献げられる新しいデンマーク人コロニーを創設する可能性を議論していた。1910年、他のデンマーク系アメリカ人達と共に、サンフランシスコでデンマーク系アメリカ人コロニー・カンパニーを創設した。その年後半、サンタバーバラの北西、サンタイネス・バレーで適当な土地が見つかった。1911年1月23日、契約が成立してソルバングが設立された。デンマーク人はメキシコの土地払い下げ地である広さ約9,000エーカー (36 km2) のランチョ・サンカルロス・デ・ホナタを、平均単価40ドル/エーカーで購入した。 マッズ・フレスと共に初期に入植した者達の中には、ソファス・オルセン夫妻、ハンス・スキット、ジョン・ピーターセン、ジョン・アーレンキルドがいた。スキットはソルバング初期の建物の多くを建設した大工として重要な役割を果たした。最初に建設されたのは伝道所に隣接したホテルであり、入植者を収容できるようにされた。グレガーセンがデンマーク系アメリカ人コロニー・カンパニーの社長となり、1911年11月15日に生徒21人で開校した学校では、ノルデントフト校長、ホルンシルトが教師に指名された。
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