グライフ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 04:51 UTC 版)
グライフ作戦(ドイツ語: Unternehmen Greif)とは、第二次世界大戦のバルジの戦いの最中にオットー・スコルツェニー率いる武装親衛隊コマンド部隊が展開した偽旗作戦。アドルフ・ヒトラー自身が発案したとされ、その目標はミューズ川に掛かる橋を破壊することであった。作戦に参加したドイツ兵士は鹵獲したイギリス軍およびアメリカ軍の軍服を着用し、鹵獲した連合軍車輌を用いて戦線後方に浸透、連合軍に混乱を引き起こそうと試みた。しかし、最終的には車輌の不足や軍服や車輌の偽装に基づく制限から、当初の目的を達成することはできなかった。
背景
パンツァーファウスト作戦の成功を経て、スコルツェニーはアドルフ・ヒトラーに特に気に入られた軍人の一人となっていた。1944年10月22日、ドイツ本土に帰国したスコルツェニーはヒトラーによって東プロイセンのラステンブルク(現在のケントシン)の総統大本営『ヴォルフスシャンツェ』へと呼び出された。ヒトラーはスコルツェニーの戦功を称えて親衛隊中佐への昇進を伝えた後、予定されているアルデンヌ攻勢において彼に期待される役割の説明を行った。
ヒトラーからの要請とはミューズ川に掛かる橋の確保であり、これを果たすべくスコルツェニーは特殊任務旅団として第150装甲旅団(Panzer-Brigade 150)の編成を行った。この会見の中で、ヒトラーはスコルツェニーとその部下がアメリカ兵の姿をしていたならば、より迅速かつ少ない損失で目的を達成しうるであろうと提案し、さらに敵の軍服を着た小部隊は虚偽命令、コミュニケーションの妨害などを行い、誤った指揮を誘うことも可能であろうと語った[1]。
私は君が英米の兵士を率い、ミューズに掛かる橋を確保する事を期待する。しかし親愛なるスコルツェニーよ、それは本当のアメリカ人や英国人ではない。英米の軍服を着た特殊部隊を君に任せたいのだ。彼らには鹵獲した連合軍の戦車も預けよう。君なら混乱を巻き起こせるであろうと私は確信している。偽の作戦表を作成して、攻撃部隊の通信と指揮を挫いてはどうだろうか。 — アドルフ・ヒトラー、The Black Angels, 1979[2]
この作戦は明らかにハーグ陸戦条約に抵触しており、仮に米兵の姿をしたドイツ兵が捕まった場合はスパイとして処刑されることが予想された。スコルツェニー自身もこの点は深く理解しており、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将や西方軍総司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥と何度もハーグ陸戦条約に関する議論を重ねたという[3]。
第150装甲旅団

ヒトラーはこの作戦に「グライフ」のコードネームを与え、スコルツェニーにはアルデンヌ攻勢に向けて部隊の編成および訓練の為に5週間または6週間の猶予が与えられた。それから4日以内に、スコルツェニーはヨードルへ第150装甲旅団の編成計画を提出している。この編成計画はおよそ3300人もの兵員を要求する大規模なものだったにもかかわらず、ヨードルは即座に承諾し、また全面的な支援を約束した。
10月25日、国防軍最高司令部はグライフ作戦に従事する兵士を集める為、西部戦線に展開する全ての司令部に宛て「英語、またはアメリカ英語の知識があるもの」を募集する旨の命令を発した。この情報は連合軍にも察知されている[4]。
新設された旅団はアメリカ軍の軍服・車輌・武器などを大量に必要としていた。西方総軍司令部(OB West)は、15輌の戦車、20輌の装甲車、20輌の自走砲、100輌のジープ、40輌のオートバイ、120輌のトラック、および英米軍の軍服を調達し、バイエルン東部のグラーフェンヴェーアに設置された旅団駐屯地に届けるように要請を受けている。しかし実際に届けられた装備類は必要調達数を大きく下回っており、車輌は状態の悪いM4シャーマン中戦車2輌のみだった。この為、スコルツェニーは5輌の偽装パンター戦車および6輌の装甲車などドイツ製車輌に偽装を施すことで代替を試みている。この際、何故か大量のポーランド軍および赤軍の鹵獲装備品が旅団に届けられたという。
将兵の内、慣用句やスラングを使いこなして完全にアメリカ英語を話すことができるのは10人で、30人から40人は十分に英会話を果たせたもののアメリカ英語のスラングに関する知識を持っていなかった。その他、それなりに英語の知識を持ち合わせたものは140人から150人程度、他の200人は学校教育に基づく知識のみを持ち合わせるのみであった。
こうした状況に直面したスコルツェニーは、旅団を3個大隊体制から2個大隊体制に縮小した上で特に英語の能力に秀でたものを150人選出し、シュティーロウ部隊(Einheit Stielau)なる特務部隊を編成した。スコルツェニーはまた、自らが編成・指揮に携わったSSミッテ駆逐戦隊から1個中隊、第600SS降下猟兵大隊から2個中隊を募集し、空軍の特務飛行隊KG200からは2個中隊を抽出した。さらに一般の戦車連隊や砲兵隊からも戦車兵および砲兵が引きぬかれている。こうして旅団は想定より800人ほど少ない2500人規模ながら、グラーフェンヴェーアの駐屯地で再編成された。
装備調達は依然として難航していたが、個人装備に関しては全隊員に行き渡るだけの量がどうにか調達された。車輌は4輌の偵察車と30輌のジープが新たに調達された他、ドイツ製のトラック15輌がアメリカ軍風のオリーブドラブに塗装された上で引き渡されている。またシャーマン戦車は結局1輌のみが配備されることになり、これに対しては旅団に所属するパンター戦車のキューポラを撤去した上で金属板で覆い、M10戦車駆逐車風の偽装を施すことで代用した。彼らにとって自軍と敵軍を区別することは非常に重要な問題であり、様々な識別方法が考案されている。車輌の後部には黄色い三角形のマークを付け、戦車は砲身を9時の方向に向けることとされた。兵士はピンクないし青のスカーフを身につけた上でヘルメットを脱ぎ、夜間には青ないし赤の識別信号を用いることとされた。
作戦の準備段階として、旅団の隊員は「ドイツ軍がダンケルクおよびロリアンの包囲を和らげるべく、アントワープへの攻撃、またはパリの欧州連合国派遣軍最高司令部(SHAEF)占領を目論んでいる」という噂を流布した[5]。スコルツェニーの部下達も、12月10日までは旅団に課せられた真の目的を知らされていなかった。第150装甲旅団に課せられた使命は、ミューズ川に掛かる橋(アメ、ウイ、アンダンヌ)の内、少なくとも2つを確保することであった。歩兵は戦車隊がアルデンヌとアイフェル高地の中間に位置するオート・ファーニュに到達した時点で活動を開始することとされていた。歩兵部隊はX戦闘団、Y戦闘団、Z戦闘団の3グループに分割され、それぞれ別々の橋を担当した。
シュティーロウ部隊
シュティーロウ部隊の隊員には、アメリカ英語の知識だけではなく身分秘匿諜報活動ないしサボタージュ活動の経験が求められた。彼らは爆発物及び通信に関する訓練や、アメリカ陸軍の階級制度及び教練内容に関する講義を繰り返し受け、さらにアメリカ英語をより正確に習得するべくキュストリンやリンブルクの捕虜収容所にて米軍捕虜を相手とした英会話なども行った。
彼らはアメリカ陸軍の制服を着用し、アメリカ陸軍の銃器及びジープを装備していた。彼らに課せられた任務は次の3つであった。
- 5人ないし6人ずつで編成される発破班は、橋梁、弾薬集積所、燃料集積所を破壊する。
- 3人ないし4人ずつで編成される偵察警戒班は、ミューズ川の両岸を偵察する。また、米軍部隊と遭遇した場合は偽の命令を渡す。さらに道路標識を逆にする、地雷の警告表記を取り除いたり逆に何もない道路に警告表記を設置するなどの妨害工作を行う。
- リード部隊(Lead)は、攻撃部隊と共に活動する。電信線や無線局を破壊して通信網を寸断し、偽の命令の信憑性を高める。
作戦開始
12月14日、第150装甲旅団はバート・ミュンスターアイフェルで集結した。そして12月16日午後から移動を開始し、第1SS装甲師団、第12SS装甲師団、第12国民擲弾兵師団などと共にオート・ファーニュを目指した。当初の計画ではこれら3個師団が到達してからグライフ作戦が発動される事とされていたが、スコルツェニーは第1SS第装甲師団が移動開始後2日以内に目的地へ到達出来なかった場合、すぐに活動を開始するつもりでいた。
12月17日、スコルツェニーは第6装甲軍司令部における作戦会議に参加した。この際、第150装甲旅団も通常戦力の一部として作戦に加わる旨の提案が行われている。会議の中で第150装甲旅団はマルメディの南に展開することとされ、スコルツェニーはサンウベールの第1SS装甲師団本部に出頭するように命じられた。
1944年12月21日、第150装甲旅団はスコルツェニーの指揮下でマルメディへの攻撃を試みた。しかし、その後何度か行われた攻勢はいずれもアメリカ軍守備隊によって撃退されている。これはバルジの戦いにおいてドイツ人が行ったマルメディ確保を狙った唯一の試みと見られている[6]。
コマンド作戦
スコルツェニーは投降後に行われた取り調べの中でシュティーロウ部隊の活動に触れている。この取り調べ記録によれば、4つの偵察班と2つの発破班は攻勢初日に活動を開始したという。また3つの部隊が第1SS装甲師団、第12SS装甲師団、第12国民擲弾兵師団と共に行動し、さらに3つの部隊は第150装甲旅団と共に行動した。12月16日、スコルツェニーはあるコマンド班がマルメディに到達したことを報告しており、また別の班がポトーから撤退中の米陸軍部隊への降伏勧告を行なっている。さらに別の班は道路標識を回転させて、あるアメリカ軍連隊を誤った方向へ送ったという。
一方のアメリカ軍でも「偽のアメリカ軍」の活動を察知しており、米軍憲兵隊はこれを見つけ出すべく何箇所もの検問所を設け、結果として物資・人員の移動は大きく滞った。これらの検問では、アメリカ人であれば常識として答えられるであろう質問を合言葉として用いた。しかし、ブルース・クラーク将軍は「シカゴ・カブスはまだアメリカンリーグに所属する」と答えておよそ5時間の勾留を受け[7]、ある大尉は拾ったドイツ軍の長靴を履いていた為に一週間の勾留を受けたという。またオマル・ブラッドレー将軍は「イリノイ州の州都はどこか?」という質問に正しくスプリングフィールドと答えたが、尋ねた憲兵が州都をシカゴだと思い込んでいた為に勾留を受けたという。12月2日には、2人の米兵が「偽のアメリカ軍」と誤認され憲兵隊により射殺されている[8]。また1945年1月2日にはバストーニュに移動中だった第6機甲師団所属の分遣隊が、第35歩兵師団を「偽のアメリカ軍」と誤認して発砲し、2人が死亡、その他複数名が重傷を負った[9]。
英軍は撹乱の影響を受けず、米軍の行動が麻痺していると聞いたバーナード・モントゴメリー元帥は戦果を拡張するべく自ら前線へと向かった。ところが前線では「ドイツ軍のスパイにはモントゴメリー元帥に似た男がいる」という噂も広まっており、モントゴメリーの車は米軍の検問で足止めされることになる。この馬鹿馬鹿しい事態に腹を立てたモントゴメリーは検問を無視して車を進めるように運転手に命じたが、不審に思った米兵がすぐにタイヤを撃ち車を止め、結局は数時間にわたり尋問の為に近くの納屋へと拘留された。尋問中、激怒したモントゴメリーは解放しなければ軍法会議に掛けてやると言い、また身分証明を求められるとこれを侮辱と捉え一層と憤慨したという。最終的に英軍将校による確認が行われた後、元帥は解放された。この事件を聞いたアイゼンハワーは面白がり、「これはスコルツェニーがこれまでにあげたものの内、最高の戦果であろう」と冗談を言ったという[7][10]。
シュティーロウ部隊からは44名の隊員がアメリカ軍の前線に送り込まれたが、12月19日までに帰還したのはわずか8名に過ぎず、以後は偽装を行う意義も薄くなったため、各部隊員はドイツ軍の軍服に着替えて戦闘に参加した。シュティーロウ部隊の隊員以外にも、単に寒さを凌ごうと拾ったアメリカ軍の上着を着用していたドイツ兵などもコマンド部隊と誤認されて殺害されたとされる[11]。
アイゼンハワーの噂
グライフ作戦の展開によってアメリカ軍は疑心暗鬼に陥り大きな混乱に見舞われた。12月17日、エワイユ付近の検問所でコマンド隊員が逮捕された際にはその中でも最大の混乱が起こっている。逮捕されたのはマンフレート・ペルナス(Manfred Pernass)、ギュンター・ビリング(Günther Billing)、ヴィルヘルム・シュミット(Wilhelm Schmidt)ら3名のドイツ軍人である。
このうちシュミットは取り調べにおいて、当時流布されていた「スコルツェニーはアイゼンハワー将軍とその幕僚らを拉致する為にこの作戦を展開した」という噂を裏付ける虚偽の証言を行った[12]。このシュミットによる証言に加え、シュティーロウ部隊が事前に作成・配布していたグライフ作戦に関する偽の文書がヘックシャイト付近で米陸軍第106歩兵師団によって入手されていた事や、ムッソリーニ救出作戦やパンツァーファウスト作戦などスコルツェニーが関与した特殊作戦が連合国でもよく知られていた事から、アメリカ側はこの噂を信じこんでしまった。伝えられるところによれば、アイゼンハワーは保安上の理由から司令部に閉じ込められ、1944年のクリスマスを「 孤独かつ退屈」に過ごしたという[13]。
ペルナス、ビリング、シュミットの3名はアンリ=シャペルにて軍事裁判の後に死刑を宣告され、12月23日に銃殺刑に処された。その他にも13人のドイツ兵がアンリ=シャペルまたはウイにて銃殺刑に処されている[12]。
作戦後
1947年、スコルツェニーと第150装甲旅団の将校らはグライフ作戦にて不当に米軍人の制服を着用して活動した事が戦時国際法に抵触するとしてダッハウ裁判の中で訴追を受けた。しかし結局は全員に無罪判決が下されている。軍事法廷では敵の制服を着用して戦闘に参加する事と欺瞞作戦等その他の活動を区別していたが、裁判の中ではスコルツェニーらがどのような命令の元で活動していたのかを証明することが出来なかった[14]。さらに弁護側の証人としてイギリス特殊作戦執行部(SOE)のエージェントだったフォレスト・フレデリック・エドワード・ヨー=トーマスが出席し、彼は自らもまたドイツ軍人の制服を着用して敵の前線後方に侵入して工作活動を行った旨を証言した。
その他の「グライフ作戦」
この作戦以前にも、1944年8月14日にドイツ陸軍がオルシャ及びビテブスクで行った対パルチザン作戦にも同様にグライフ(Greif)のコードネームが使用されていた。
関連項目
- グライヴィッツ事件
- コマンド指令 - 1942年にヒトラーが下した命令。連合軍コマンド部隊の即時処刑を認めた命令だった。
脚注
- ^ Delaforce, Patrick (2006). The Battle of the Bulge: Hitler's Final Gamble. Pearson Education. pp. 56. ISBN 1-4058-4062-5
- ^ Butler, Rupert (1979). The Black Angels. New York: St. Martin's Press. pp. 183–184
- ^ Mitcham, Samuel W. (2006). Panzers in Winter: Hitler's Army and the Battle of the Bulge. Greenwood Publishing Group. pp. 30. ISBN 0-275-97115-5
- ^ Pallud, p. 4
- ^ Delaforce, p. 60
- ^ Cole, Hugh M. (1965). The Ardennes : Battle of the Bulge. Washington DC: Office of the Chief of Military History, Department of the Army. pp. 360–363
- ^ a b Samuel W. Mitcham Jr. (January 10, 2008). Panzers in Winter: Hitler's Army and the Battle of the Bulge (Stackpole Military History Series). Stackpole Books. p. 81. ISBN 0-8117-3456-0
- ^ Danny Parker (September 21, 1999). Battle Of The Bulge: Hitler's Ardennes Offensive, 1944-1945. Da Capo Press. p. 197. ISBN 1-5809-7023-0
- ^ German Special Operations in the 1944 Ardennes Offensive.
- ^ Operation Greif and the Trial of the “Most Dangerous Man in Europe."
- ^ Pallud, p. 14
- ^ a b Pallud, p. 15
- ^ Lee, Martin A. (1999). The Beast Reawakens: Fascism's Resurgence from Hitler's Spymasters to Today's Neo-Nazi Groups and Right-Wing Extremists. Taylor & Francis. pp. 32. ISBN 0-415-92546-0
- ^ “Trial of Otto Skorzeny and others”. Law Reports of Trials of War Criminals IX: 90–94. (1949) "The ten accused involved in this trial were all officers in the 150th Panzer Brigade commanded by the accused Skorzeny. They were charged with participating in the improper use of American uniforms by entering into combat disguised therewith and treacherously firing upon and killing members of the armed forces of the United States." "All accused were acquitted of all charges"
参考文献
- Pallud, Jean-Paul; David Parker, Ron Volstad (1987). Ardennes, 1944: Peiper and Skorzeny. Osprey Publishing. pp. 29. ISBN 0-85045-740-8
外部リンク
- Tony Paterson (2004年5月2日). “Revealed: Farce of plot to kidnap Eisenhower”. The Telegraph (Berlin)
{{cite news}}
:|date=
の日付が不正です。 (説明)⚠ - The Battle of the Bulge on the Web, Operation Greif links
グライフ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)
詳細は「グライフ作戦」を参照 10月21日、オットー・スコルツェニー親衛隊中佐はヒトラーから直々に特殊任務を命じられ、特殊部隊第150SS装甲旅団(英語版)を指揮することになった。旅団は1個の歩兵班と2つの機甲班で編成されていたが、歩兵班のなかにはアメリカ軍の軍服を着てアメリカ兵に成りすまして後方攪乱するアインハイト・スティーラウ大尉率いる特殊部隊も含まれていた。特殊部隊は80人の編成であり、非常に流ちょうな英語を話すものもいたが、なかにはどうにかわかる程度のものもいた。特殊部隊は偵察班と破壊活動班に分けられ、アメリカ軍から鹵獲したジープに分乗し、敵中深く侵入しアメリカ軍を混乱させて作戦の突破口を開くことが求められていた。しかし、作戦の目的はスコルツェニーら数人の部隊幹部しか知らず、他の隊員には伏せられていた。そのため、この特殊部隊のなかで指揮官のスコルツェニーに「自分はパリに詳しいので連合軍最高司令部を占領する任務を任せてほしい」と自らアピールする隊員も現れたが、スコルツェニーは秘密保持からこの申し出を否定することはせず、のちにこのアピールが隊内に広がって作戦に予想外の効果をもたらせることとなった。 機甲班の目的は、先頭を進撃する予定であったパイパー戦闘団と並行して進撃し、アメリカ軍の眼を欺いて戦闘を有利に進めようというものであったが、これは、バルバロッサ作戦などで実績があったブランデンブルク隊と同様の任務であり、ドイツ軍として特別な作戦という訳ではなかった。部隊編成のためアメリカ軍から鹵獲したM4中戦車などが集められたが数が全く足りなかったので、M-10駆逐戦車に似せて改造したパンター戦車、アメリカ軍塗装を施したIII号突撃砲や、車両に砲塔のハリボテを付けた偽装車両など合計70輛が配備された。隊員はドイツ全軍から志願者を募った。陸軍だけではなく海軍や空軍からも志願者が殺到したが、英語を話せるものという条件に対してはせいぜい「イエス」「ノー」「OK」を理解する程度の志願者がほとんどであった。志願者は戦車訓練場に集められると、外部との連絡を一切遮断され、アメリカ人になりきる特殊訓練を受けた。訓練のなかにはアメリカ人らしくチューインガムを噛む訓練などもあったが、長い間刷り込まれた慣習は抜け切れるものではなく、アメリカ兵らしくガムを噛んでいても、将校が命令すると直ぐに飛び上がるように敬礼してしまうなど、アメリカ人になりきれない状況を見てスコルツェニーは頭を抱えている。 ドイツ軍の侵攻が開始されると、真っ先にスティーラウ大尉率いる特殊班が戦場に投入された。しかし、投入された第6SS装甲軍の戦区は同軍の苦戦によって、道路上には敵味方の車両があふれ作戦実施が困難となっていた。そこでスコルツェニーが作戦を継続するか思い悩んでいる間に特殊班の1部は既に活動を開始しており、アメリカ軍の後方深くの侵入に成功し、道路標識や通信設備を破壊してアメリカ軍を混乱させ、なかには3,000人のアメリカ軍大部隊に流ちょうな英語で嘘の進路案内をして違った道に誘導した班もあった。また、ある班はミューズ川を渡ってアメイ(英語版)を偵察して無事に帰還したが、結局この攻勢で唯一ミューズ川を越えたドイツ兵となっている。特殊班は捕らえられると、アメリカ軍の軍服を着ていたため多くがスパイとして即決裁判で処刑されたが、わずか80人の特殊班が挙げた戦果は素晴らしいものであり、アメリカ軍を大きく混乱させた。 この作戦で最も大きな効果を上げたのがリエージュの南エイワイユ(英語版)まで到達したギュンター・ビリング士官候補生率いる1班であった。そこでアメリカ軍に捕らえらてしまったが、班員の1人ヴィルヘルム・シュミット伍長は「部隊の指揮官はスコルツェニーである」「我々の真の目的はドイツ軍捕虜護送任務を装ってパリに向かい連合軍総司令部を襲撃することだ」という自白を行った。これは、一部の隊員がスコルツェニーに進言していた計画であるが、実際に進められてはいなかったのにも関わらず、一部の隊員の中には「この作戦の真の目的」と信じられており、シュミットも自信を持って自白したものであった。この自白を聞いたアメリカ軍も、いくらドイツ軍とは言えこんな荒唐無稽な作戦を実施するわけがないという意見が主流であったが、情報部次長が、シュテッサー作戦によってドイツ軍の降下猟兵が戦場の広範囲に降下していると誤認しており、「指揮官がグラン・サッソ襲撃でベニート・ムッソリーニを救出したスコルツェニーである、また広範囲に降下猟兵が降下しており、工作隊がパリを目指している可能性は高い」「工作隊は連合軍総司令官のアイゼンハワーの暗殺か誘拐を狙いにしているかも知れない」と警戒を呼び掛けた。 そのため、パリの連合軍司令部周囲には大量の憲兵が配置されて、さながら司令部が憲兵に包囲されていると揶揄された。また、アイゼンハワーにも常時護衛の兵士が付けられて自由に散歩もできず囚人のような生活を送った。さらに警戒しすぎた保安担当者は、アイゼンハワーに風貌が似て仕草の物まねも上手かったボールドウィン・B・スミス中佐を影武者に仕立てて、工作員をおびき寄せて殲滅するといった作戦を実行したが、当然ながら空振りに終わり、のちにこの作戦を知ったアイゼンハワーから保安担当者が厳しく叱責されている。パリの連合軍全軍には夜20時以降の夜間外出禁止令も出された。パリ市内にもスコルツェニーの工作隊が変装して潜入しているというデマが広がり、その工作隊はアメリカ兵を目潰しするため硫酸の小瓶を所持しているという話まで広がっていた。そのため、パリ市内は集団ヒステリー状態となって、幻の工作隊狩りが流行し、片言のドイツ語を話せる人物がドイツ軍のスパイとして糾弾されたり、アメリカ兵に愛想をよくしただけでバーの店主が工作隊の変装と疑われたりした。 前線も同様に混乱しており、至るところに検問所が設置され、兵員や装備の移動を停滞させることとなった。野戦憲兵は、友軍のアメリカ兵に銃を突きつけながら「ミッキーマウスのガールフレンドは誰か?」「1934年のメジャーリーグの優勝球団は?」「デン・バムズってなに?」「シナトラのファーストネームは?」「大統領の犬の名前は?」「漫画リル・アブナー(英語版)の主人公の故郷は?」などアメリカ人以外は知りそうもない豆知識的なクイズを出した。軍司令官も例外ではなく、ブラッドレーは検問でイリノイ州の州都のクイズでスプリングフィールドと正しく答えたが、憲兵が州都をシカゴと思い込んでいたため、彼は短時間の拘留を受けることとなった(イリノイ州最大の都市はシカゴであるため、多くのアメリカ人が誤解している)。解放されたブラッドレーであったが、また次の検問に停められ「女優ベティ・グレイブルの今の夫は?」というクイズが出された。ブラッドレーが答えられずに考え込んでいると、野戦憲兵はブラッドレー本人と確認できたのか、笑みを浮かべながら「ハリー・ジェイムスですよ」と言って通している。第7機甲師団(英語版)B戦闘部隊指揮官ブルース・C・クラーク(英語版)准将はシカゴ・カブスのクイズでアメリカンリーグに所属していると間違って答えたため、野戦憲兵は「こんなクイズを間違えるのはクラウツだけだ」と興奮してクラークを拘束している。このためクラークはドイツ軍の攻撃を受けているサン・ヴィトへの到着が遅れてしまった。中には階級の高い将校をわざと引き留めてクイズ攻めをするといった悪乗りをする野戦憲兵もいたという。 皮肉なことにこの事件のせいで、「ヨーロッパで最も危険な人物」と綽名されるようになったスコルツェニーだが、自身はこの作戦は失敗だったとしている。特殊班の一部は大きな成果を挙げていたものの、第6SS装甲軍の進撃は捗々しくなく、また部隊の存在が明らかになった以上、作戦に固執しても仕方ないと判断し、スコルツェニーは作戦に見切りをつけ、ディートリヒに特殊任務から外れて通常の戦闘任務に就きたいと申し出た。ディートリヒはスコルツェニーの申し出を承認し、第150装甲旅団は第1SS装甲師団所属となり、兵士達は通常のドイツ軍軍服に着替えている。第150装甲旅団は、12月21日に第1SS装甲師団の後方を脅かすマルメディの連合軍部隊の排除を命じられたが、ここでアメリカ軍の新兵器近接信管付きの重砲の砲撃をドイツ軍として初めて浴びることになった。目標の至近で炸裂し弾片をまき散らす近接信管付きの砲弾は、通常の砲弾よりも殺傷力が高く、1斉射で100人以上が死傷するなど部隊は大損害を被って恐慌状態に陥り、スコルツェニーは攻撃を諦めて撤退を命じている。鹵獲したM4やアメリカ軍戦車に偽装したパンターも大半が撃破されるか戦場に放棄された。この日、第1SS装甲師団の司令部が置かれたホテルにいたスコルツェニーは飛来してきたアメリカ軍の榴弾で重傷を負った。12月28日には旅団の将兵とともに撤退し、まもなく旅団も解散となった。
※この「グライフ作戦」の解説は、「バルジの戦い」の解説の一部です。
「グライフ作戦」を含む「バルジの戦い」の記事については、「バルジの戦い」の概要を参照ください。
- グライフ作戦のページへのリンク