バストーニュ救出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)
バストーニュ到着をパットンが約束した12月25日、第4機甲師団はまだ第5降下猟兵師団の防衛線を突破できずにいた。A戦闘部隊はワールナハを攻略したものの、小川を挟んだティンタンジュの村落に自走砲1輌と空挺兵数百人が守っており、その攻略に手間取って、結局自走砲を撃破し161名の空挺兵を捕虜にして村落を確保した頃には、日没となってしまい進撃できなかった。B戦闘部隊はショーモンの攻略にもっと手間取っており、B戦闘部隊司令部にはドイツ軍侵攻開始時に休暇でアメリカ本国に帰国していた第101空挺師団長のテイラーが同行し、バストーニュで部下将兵と再会することを楽しみとしていたが、ショーモンで2日も足止めを食らうこととなった。第4機甲師団はABの両戦闘部隊ともに苦戦が続いていたので、予備のR戦闘部隊も投入されることとなり、R戦闘部隊は首尾よく前進を続けて、25日にはB戦闘部隊が苦戦中のショーモン村落北西のレモンビーユ村落に到着し、大きな損害を被ることなく320人のドイツ兵を捕虜にして村落を攻略したが、師団長のヒュー・ジョセフ・ガフィー(英語版)少将はこれまでのパットンからの無理な進撃命令で損害を被っていたことから慎重になっており、R戦闘部隊にも進撃停止を命じた。 12月26日の早朝、R戦闘部隊は進撃を開始した。R戦闘部隊の主力はクレイトン・エイブラムス中佐が指揮する第37戦車大隊と第53装甲歩兵大隊であったが、これまでの激戦で戦車はM4が20輌にまで減っていた。エイブラムスにはシブレの攻略が命じられていたが、ドイツ軍の強力な部隊が守っていることが予想されたため、シブレを迂回してドイツ軍の防備が薄いアセノワ(フランス語版)を攻略すればバストーニュまでわずか5㎞の位置に到達できると考えて作戦を変更を決めた。この作戦変更に対してパットンは「勝利は危険の中に存在する。これが私が待っていた吉報だ」と喜んで許可している。 エイブラムスはアセノワに対し砲撃支援と航空支援を要請、アセノワでは第26国民擲弾兵師団第39擲弾兵連隊がバストーニュへの攻撃準備をしていたが、そこに激しい砲爆撃が加えられその爆煙が収まらないうちにM4が村落内に突進してきた。ドイツ兵は地雷を道路上にばら撒き抵抗し、ハーフトラックが1輌地雷を踏んで撃破されたが、戦車隊を率いていたウィリアム.ドワイト大尉は構わず前進を続けた。ドワイト隊の先頭を突き進むのは、通常のM4より重装甲のM4A3E2「コブラ・キング」(別名ジャンボ)5輌であった。その「コブラ・キング」に対してドイツ軍88㎜対戦車砲2門が砲撃してきたが、機甲歩兵のジェームズ・R・ヘンドリックス2等兵が1人でライフル片手に突撃して2門の88㎜対戦車砲を制圧し、「コブラ・キング」隊はそのままバストーニュに向けて突進を続けた。この戦闘でヘンドリックスは名誉勲章を受賞している。 日没前の16:55ついにドワイトの戦車隊はバストーニュ市街に達して第101空挺師団との接触に成功、19:10にエイブラムスもバストーニュに到着してマコーリフと握手をし、そのあとに師団長のテイラーも到着した。ドワイトが素通りしたアセノワの掃討は午後10時に終わり、確保できた交通路から物資を満載したトラックと、負傷者を搬送する野戦救急車が次々とバストーニュ市街に入り重傷者964人を後方に搬送したが、70輌の救急車でピストン輸送しても重傷者全員の搬送には36時間を要した。続々と到着する支援部隊からマコーリフは連合軍の各部隊が第101空挺師団を心配していたと聞かされたが、マコーリフは迷惑顔で「我々の調子は上々だ。これからすぐに攻勢にとりかかっても結構だ」と強がって見せている。
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