ドイツ連邦、1815年 - 1871年
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「ヴュルテンベルク」の記事における「ドイツ連邦、1815年 - 1871年」の解説
1815年、フリードリヒ1世はドイツ連邦に加盟したが、ウィーン会議では新領土を獲得することは出来なかった。同年、フリードリヒは自分の臣民の代表者たちに新憲法の骨子を提示したが、代表者たちは王の憲法を拒否し、この政治的緊張の最中の1816年3月にフリードリヒは死去した。 新王ヴィルヘルム1世(在位1816年 - 1864年)は即位してすぐに憲法問題の解決に向けて動き、臣民の代表者たちとの長い交渉の結果、1819年9月に憲法が制定された。この王国憲法は途中で修正を加えられながらも1918年まで国家の基本法として存続することになった。憲法問題が決着して平穏な時代が訪れると、教育、農業、交易、工業といったヴュルテンベルク王国の内的な発展が重要な問題として関心が向けられた。こうした発展のため、国王ヴィルヘルム1世は公私両面での倹約によって破綻していた国家財政を立て直そうとした。しかし1819年の憲法の下での自由より大きな政治的自由を求める声は消えず、1830年以後は政治的に不安定な状況が続いた。しかしこうした不安定も、ヴュルテンベルクがドイツ関税同盟に加盟し、鉄道が敷設されたことで貿易が盛んになり始めると、いつしか消えていった。 1848年にヨーロッパ諸国で革命運動が勃発するなか、ヴュルテンベルク王国では何の暴動も起きなかったものの、無関係ではいられなかった。ヴィルヘルム1世は宰相ヨハンネス・フォン・シュライヤーとその他の閣僚を罷免し、より自由主義的で統一ドイツの理念を支持する大物政治家に組閣を命じなければならなかった。ヴィルヘルム1世は民主主義憲法を公布したが、自由主義者の運動が勢いづくや否や自由主義者の内閣を罷免し、そして1849年10月にはシュライヤーとその仲間たちが政権に復帰した。国王と内閣は選挙権を拡大して民心を懐柔する一方で、1851年には自分たちに従順な議会を召集することに成功し、この議会は1848年に国民が獲得した全ての特権を放棄した。当局はこうした巧妙な方策で1819年憲法の体制を復活させ、国家権力は官僚の手に渡った。教皇権との間に結ぼうとした政教協約がヴィルヘルム1世の長い治世における最後の政策だったが、議会はこの協約の批准を拒否した。議会は王国で独自に教会と国家の関係を規定する方が望ましいと考えたのである。 1864年7月に父ヴィルヘルムから王位を引き継いだカール1世(在位1864年 - 1891年)は、即位当初から様々な困難に見舞われた。ドイツの覇権をめぐるオーストリア帝国とプロイセン王国の争いにおいて、先王ヴィルヘルム1世は常にオーストリア側についていたが、この親オーストリア的な外交姿勢は新王とその助言者たちにも受け継がれた。1866年の普墺戦争ではヴュルテンベルクはオーストリア側について参戦したが、ケーニヒグレーツの戦い(1866年7月3日)から3週間後、ヴュルテンベルク軍はタウバービショフスハイムでプロイセン軍に大敗し、王国はプロイセン軍に蹂躙された。プロイセンはヴュルテンベルク王国の北西部を占領し、1866年8月に和約が結ばれた。この取り決めにより、ヴュルテンベルクは800万グルデンの賠償金を支払い、またすぐに征服国プロイセンとの軍事同盟を結んだ。ヴュルテンベルクは1868年、サンクトペテルブルク宣言の締結国の一員となった。
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