ドイツ連邦以前(~1815年)
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「軍服 (ドイツ)」の記事における「ドイツ連邦以前(~1815年)」の解説
17世紀に入った頃からヨーロッパの軍隊では兵士が着る服の色の統一が図られるようになり、やがて仕立ても標準化されるようになった。そして、ドイツの一部領邦ではオランダ、デンマークと並んで最も早く服の色の統一が図られたとされている。 1660年代からフランスのルイ14世が行なった軍制改革によって近世ヨーロッパの軍制が確立し、その新しい服装(ジュストコール)もプロイセン王国および神聖ローマ帝国たるドイツの各領邦に制服として採用された。一方のフランス軍も七年戦争以降、衛兵隊の上衣にプルシアンブルー(ドイツ語ではプロイシッシュブラウ、ドイツ語: Preußisch Blau)と呼ばれる紺青の軍服を導入するなど相互に影響し合っていた。しかし1806年にプロイセン王国がナポレオンに敗北するとプロイセン軍は消滅。程なくゲルハルト・フォン・シャルンホルストによって再建された新生プロイセン軍は、エポレット、シャコー帽、燕尾服型の上衣(コレットと呼ばれた)など完全なフランス式となる。一方で、フランスを良しとしない反仏義勇軍は学生帽から発展したシルムミュッツェ(官帽)、市民の上着から発展したユーバーロック(ドイツ語: Überrock、フロックコート)など独自の制服を有し、ナポレオンに反攻を開始した1813年以降、これらは愛国的な軍服として国民軍(後備軍)制服に導入された。 普墺戦争でオーストリアを、普仏戦争でフランスを下すとその影響力は強まり、「ドイツ式」軍服がヨーロッパ各国に採用されるようになる。以降、ドイツ帝国が崩壊する第一次世界大戦まで「ドイツ式」が軍服の流行を主導する。 フランス革命前後より前合わせをホックで留める様になり、前留に連隊色を配した。擲弾兵はグレナディアーミュッツエ(ドイツ語版)と呼ばれる冠を被った。 プロイセンの軍服 近衛兵(1701年) 胸甲騎兵(1715年) ユーバーロックを着用するフリードリヒ2世(1780年代) 18世紀末のプロイセン第35フュージリア連隊将校および擲弾兵の軍装(1785年) 槍騎兵(1760年ごろ) ボシュニャク連隊の騎兵(1786年) 親衛騎兵(1806年) M1806略装の将校。14年より襟は閉じる。カール・フォン・クラウゼヴィッツ アーダルベルト・フォン・プロイセン
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