ドイツ軍司令部の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 06:11 UTC 版)
「レマーゲンの戦い」の記事における「ドイツ軍司令部の混乱」の解説
2月から3月上旬にかけて、ドイツ軍によるライン川渡河の指揮系統は何度も変更されており、アメリカ軍のライン川進攻以前はライン川に架かる22本の橋と25本の鉄橋は軍管区(Wehrkreis)の管轄下にあった。ここからの報告は陸軍司令部ではなく、武装親衛隊(Waffen-SS)の司令部に報告されていた。2月、ルーデンドルフ橋は第6軍管区から第12軍管区の管轄下に入った。 2月下旬よりドイツ軍は後手に回っており、連合軍の進撃を食い止めようといくつかの指揮系統の変更を試みていた。ルーデンドルフ橋を含む橋の管理は陸軍に移されたが、軍管区の将校らは指揮権を維持しようと度々、介入を行っていた。橋の周辺の防空部隊は陸軍、軍管区、武装SSの司令部ではなく、空軍の司令部へ報告を行うものとなっていた。 アメリカ軍によるグレネード作戦(en)の最中の3月1日、第5装甲軍と第15軍は橋の防衛任務を交代した。第53軍団の司令官ヴァルター・ボッシュ(de)中将はレマーゲン地域の防衛を任されていた。ボッシュは部隊を視察するためにラインラントを訪れたが、3月5日の時点でルーデンドルフ橋の防衛にあたっていたのはわずか36人で、そのほとんどが負傷から回復した兵士であり、数人の工兵と高射砲部隊が存在するだけであった。ボッシュは鉄橋守備隊指揮官であるヴィリー・ブラトゲ(Willi Bratge)大尉に、橋を守るために一個大隊を送ることを約束したが、その約束は守られなかった。また作業員や追加の爆薬、無線機、工具なども要求したが、多くは届けられず重対空大隊の増援も約束されていたが、それも到着はしなかった。 3月6日の時点で、第9装甲部隊はすでにライン川から14kmしか離れていなかった。同日、ボッシュは、橋の詳細を後任のリヒャルト・フォン・ボスマー大将に報告することができず、また、ボスマーはボンの防衛に集中していたためレマーゲンを訪れることができなかった 。代わりに3月6日の夜、レマーゲンに連絡将校を派遣したが、アメリカ軍の急速な進撃に巻き込まれ、誤って戦線に侵入し捕らえらた。 3月6日の夜、撤退するドイツ軍からアメリカ軍がレマーゲンに近づいているとブラトゲに連絡が入ると、ブラトゲはボッシュに連絡を取ろうとしたが、ボッシュがすでに転身していることを知らなかった。 ヒトラーは、ジークフリート線を何としても維持するようにとの命令を出しており、これは、連合軍が国境の要塞などを急速に突破したことで、ドイツ軍の通信、指揮系統、ライン川西岸の防衛全体が混乱していたためであった。ライン川の東側に撤退して再編を行うのが自然であったが、ヒトラーは撤退を絶対に許さず、失った領地を取り戻すことに固執し、理不尽な要求を突きつけていた。包囲される可能性のある部隊は、より防御力の高い場所に退却することができなかった。また、軍法会議による銃殺から逃れるために、司令官たちは報告書の改ざんなどを行っていた。或いは、誰かに責任を転嫁するために、現実的に実現できないような命令を下すなどの行為が横行していた。既に疲弊しきったドイツ軍は定められた地域にとどまることができず、ましてや奪回の余地もなく、その結果、アメリカ軍のライン川への進出を更に許すことになった。 3月6日、レマーゲン地区を担当していた第53軍団司令官エドウィン・ロートキルヒ(de)騎兵大将がアメリカ軍の戦線に迷い込み、捕らえられた。このような混乱の中、第12軍団の新司令官であるオットー・ヒッツフェルト(de)歩兵中将は、3月7日の午前1時にルーデンドルフ橋の防衛を担当するよう命じられた。ヒッツフェルトは、副官のハンス・シェラー(Hans Sheller)少佐をレマーゲンの指揮官として派遣し、シェラーは午前3時に8人の無線部隊を引き連れて出発したが、64kmに渡る道中でアメリカ軍の戦車を迂回しなければならず、移動車両がガス欠になり、さらに迂回して燃料を補給しなければならなかった。ブラトゲ大尉は、シェラーが指揮を執ると報告を受けたとき、最初は安心していたが、その後、ボッシュが送ると約束していた大隊をシェラーが連れていないことを知った。
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