叙任権闘争と教会改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 12:23 UTC 版)
「グレゴリウス改革」および「叙任権闘争」を参照 修道院の地位向上は、教皇レオ9世の教会改革やグレゴリウス7世のグレゴリウス改革の前提となり、教皇権と皇帝権が争った叙任権闘争の前提となった。クリュニー修道院の改革派は聖職売買を根絶させるために聖職叙任権を世俗権力から教皇に取り戻すために動いた。教皇グレゴリウス7世のグレゴリウス改革ではクリュニー修道院のラゲリウスのオドが教皇代理として活躍し、後にオドはウルバヌス2世として教皇に選出された。 中世ヨーロッパでは、皇帝権と教皇権という2つの権力・権威が相補的役割を果たしていた。11世紀に入ると、この皇帝権と教皇権の関係が叙任権闘争において対立した。叙任権闘争は1075年からヴォルムス協約に至る皇帝権を相手としての俗権叙任に関わる政治闘争である。他方で、教皇レオ9世のランス公会議(1049年)より教会の包括的改革が始まり、グレゴリウス改革に結実する。 教皇レオ9世は聖職者の倫理改革を目指してシモニア根絶を表明し、1049年にローマ、ランス、マインツで立て続けに教会会議を開催し、シモニアによって任命されたと考えられる司教を罷免したり、彼らによって与えられた叙品を否定する意図を明らかにし、ニコライティズムについても禁止を命じたが、これらは抵抗に遭った。ただし、レオ9世の改革の対象はほぼ教会内部に限られており、教権と俗権の関係には及んでいない。その後ニコラウス2世は1059年、ラテラノの教会会議で下級聖職者に限って俗人叙任を明確に禁止した。このときの俗人叙任禁止を司教叙任も含め全聖職者に及ぶと考える研究者もいる。つづくアレクサンデル2世も聖職者の倫理改革に着手し、教皇特使を活用してキリスト教社会に影響を及ぼそうとし、シモニアやニコライティズム(聖職者の妻帯)を強く批判した。こうしてグレゴリウス7世の登極までに改革は着実に進展していた。 叙任権闘争と教会改革の結果、教皇権は、皇帝権に対して一定の自立を勝ち得、その完結性を実現した。また日常生活に関わる秘蹟への関与を強めて民衆の精神支配において影響力を持った。12・13世紀に霊性(スピリトゥアリタス、Spiritualitas)は、人間の「超自然性」「非物質性」を意味し、さらには国家に対する教会法的意味での教会の聖職を指す用語となった。さらにシュタウフェン朝の断絶後に皇帝権が著しく影響力を弱めると、教権は全盛の時代を迎える。 一方で教会改革を通じて高められたキリスト教倫理は、12・13世紀になると、民衆の側から使徒的生活の実践要求という形で教会に跳ね返り、さらには異端運動を生み出す元ともなった。また14世紀に入ると、教皇権は国家単位での充実を果たした俗権の挑戦を受けることになった。 なお野口洋二は、クリュニー精神は世俗権からの「教会の自由」を主張し、この考えがロートリンゲンの修道院運動でシモニア批判に結びつき、グレゴリウス改革で本格的にそれが主張されるという、発展の傾向は認められるが、クリュニーはシモニアに対しては妥協的であったし、クリュニーがグレゴリウス改革を生み出したというよりは、両者が並行して展開しながら間接的に影響し合っていたとみる。 一方、11世紀後半以降の急速な貨幣経済の浸透によって、クリュニー修道院をはじめとするベネディクト会修道院は共通して財政悪化した。
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