倫理改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:35 UTC 版)
コームズは州政府職員に成果主義を導入し、政治的な理由で雇用されたり解雇されたり出来ないようにした。この制度は公共事業の仕事により精通した人材を引きつけることになった。1962年、州裁判所が、州の憲法で総量を規定される州職員の給与は、インフレに応じて調整できると裁定したときに、さらに魅力的なものになった。コームズは州職員がその部署を規定する規則に厳密に従うべきだと要求した。例えば、カーター郡の監督官ヒーマン・マクガイアは政治的な利益のためにその職を使っていたことで知られたが、その州による監査を命令した。コームズは直接マクガイアを罷免する権限は無かったが、その監査でマクガイアの予算の誤用や権力の乱用が明らかになった。州教育委員会がこの所見を調査し、教育委員を解雇した。その後任となった委員会はマクガイアを罷免した。 1961年、ニューポートの市民団体が、同市の犯罪を撲滅するのを支援するようコームズに求めた。ニューポートは、オハイオ州シンシナティ市のオハイオ川対岸にあり、売春、ギャンブル、違法アルコールの天国と言う評判があった。コームズは市民からの宣誓供述書を受け取った後、アルコール飲料規制局の職員を市に派遣した。その結果、酒類販売を規制する法を犯したバー6軒を摘発し、法の強制をできなかった地元役人4人を告発するよう州検事総長のジョン・B・ブレッキンリッジに指示した。その関連する裁判で公民権に関わる違反が浮かび上がったとき、アメリカ合衆国司法長官ロバート・ケネディが司法省の役人をニューポートに派遣し、保安官と巡回裁判所判事の辞任を促すことになった。4年間のうちに他にも2人の役人が解雇された。Iコームズが汚職について摘発させたものは、いわゆる「トラック取引」など、政治的に問題のあるものだった。1961年、「ルイビル・クーリエ・ジャーナル」の記者カイル・バンスが、コームズの元選挙参謀の一人から、州は346,800ドルでダンプ・トラックを購入しようとしており、その額は商品の価値を遥かに超えていると報道した。この新聞は以前から高規格道路コミッショナーのクレメンツと対立しており、この取引を高規格道路コミッショナーが手配した政治的報償と位置づけた。コームズは正直な知事としての評判を維持するために、この取引を取り消させた。それがクレメンツを怒らせ、コームズの行動を公的な懲戒だと捉えた。この事件はクレメンツとコームズの間に亀裂を生じさせ、その後も癒えることがなかった。クレメンツは後に辞任したが、表向きは友人であり上院議員時代の仲間だったリンドン・B・ジョンソンの大統領選挙を応援するということだった。その後クレメンツはあらゆる機会にコームズと対立するようになり、ハッピー・チャンドラーとすら組んで、1962年のアメリカ合衆国上院議員選挙ではウィルソン・ワイアットに敗北させた。これは以前にワイアットに協力すると約束したことと反対の行動だった。 コームズはまた州では初の人権委員会を結成させ、州内のあらゆる公共の場での人種差別撤廃を命じた。この動きはジョン・F・ケネディ大統領からコームズに宛てた文書で賞賛された。1961年、コームズはケンタッキー大学から名誉法学博士号を贈られ、1962年2月17日にはケンタッキー州高規格道路の清掃に務めた功績により、キープ・アメリカ・ビューティフルから賞を贈られた。これには幹線道に近い廃車置き場を塀で隠させることを要求する法の成立が含まれていた。 コームズの知事としての業績の中には、州内の選挙で投票機を導入させたこと、州職員が政治的運動資金を評価することを重罪とする法を成立させたことが挙げられる。知事任期の終わりには、知事の後継者としてエドワード・ブレシットの後ろ盾となった。ブレシットは民主党予備選挙でハッピー・チャンドラーを破り、本選挙でも共和党候補のルーイー・ナンを破って当選した。これは20世紀のケンタッキー州で、現職知事が推した後継者が当選した唯一の例となった。
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