修道院改革運動と教会改革の始まり
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「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「修道院改革運動と教会改革の始まり」の解説
「修道院改革」を参照 カロリング帝国が崩壊してから神聖ローマ帝国の成立するまでにノルマン人、マジャール人、イスラム教徒の攻撃を受けて修道院は破壊されたが、10世紀のクリュニー修道院の出現によって修道院改革がはじまった。中世最大の修道会とされるクリュニー修道院は910年にアキテーヌ公ギヨーム1世が設立し、ベネディクトゥスの修道精神に厳格に従い、1016年から1027年までは教皇直属となり、「神の平和」運動や巡礼を支援し、アジール権などを持った修道院院長の権威と勢力フランス国王に匹敵するともいわれた。 ザクセン朝、ザリエル朝の皇帝は皇帝権を維持するため教会に裁判権、関税権などを与えて帝国直属とし支配する帝国教会政策をとっていたが、修道院改革運動によって攻撃された。しかし、ザリエル朝の皇帝ハインリヒ3世は修道院・教会改革に共感し、聖職売買(シモニア)を厳禁した。しかし、息子のハインリヒ4世と改革の主導者であったグレゴリウス7世は聖職者の任免権を巡る叙任権闘争で争うことになる。 教会改革は教皇レオ9世によって着手され、聖職者の倫理改革を目指してシモニアに対して厳しく対処することを表明した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}改革遂行のため、当時の改革的聖職者を教皇庁の下に結集して、教会改革に合致する教会法の集成に着手させ、教皇首位権を現実化しようとした[要出典]。その後ニコラウス2世は1059年に俗人叙任を禁止した教皇選挙教令で皇帝の聖性を否定した。 修道院改革の精神とグレゴリウス改革が全ての面において、一致していたわけではない。教皇主導の教会改革が徐々に急進化するに及び、当初は協力的であったクリュニーは教皇庁と距離を置くようになっていった。たとえば改革派が唱える、明らかにドナトゥス派に通じる叙品論に対しては、クリュニーはペトルス・ダミアニとともにこれに反対した。またイスパニアでもカスティーリャ王国に影響を及ぼそうとする教皇の政策に対し、クリュニーはむしろアルフォンソ6世と結びつくことで、これに対抗した[要出典]。 しかしクリュニー精神もグレゴリウス改革も、キリスト教が「危機」に直面しているという認識では一致していたのであり、この時代の大きな雰囲気の中から生まれたものであることは共通していた。クリュニーは世俗権からの「教会の自由」を主張し、この考えがロートリンゲンの修道院運動でシモニア批判に結びつき、グレゴリウス改革で本格的にそれが主張されるという、発展の傾向は認められる。だが、クリュニーはシモニアに対しては妥協的であったし、その運動の進展はグレゴリウス改革と並行していた。したがってクリュニーがグレゴリウス改革を生み出したというよりは、両者が間接的に影響し合っていたと見るべきであると野口洋二は論じている。
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