修道院次長から修道院長へ
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「カンタベリーのランフランクス」の記事における「修道院次長から修道院長へ」の解説
ランフランクスは学校で教育に従事している時期と論争に従事している時期の間に権力を得ていった。後の伝承では、彼はベック修道院次長になった一方で、ノルマンディーのギヨーム2世とマティルダ・オブ・フランダースとの教会法に悖る結婚(1053年)に反対して問題を起こしたため追放された。しかし、彼がまさに出発しようとしたときに論争は終結し、彼は教皇から結婚の承認を取り付けるという難しい役目を引き受けることになった。これに関して彼は成功して、さらに、同じ教会会議で彼はベレンガリウスに対する三度目の勝利(1059年)を収め、ギヨーム2世から感謝され続けることになった。この話を評価すると、ギヨーム2世とマティルダの結婚の障害は実際のところなんだったのかを伝える信頼できる史料がないことが注目される。ランフランクスは1066年にカーンの聖エティエンヌ修道院の初代院長となった。この修道院はギヨームが教皇座に対して命令違反したことの償いとして立てさせられたとされている。 それ以降ランフランクスは自身の教師の方針にかなりの影響を及ぼした。ギヨームは教会の改革のためにクリュニー修道院で行われた方法を採用し、ローマの協力を得て教会の分裂・腐敗に対抗する十字軍という体でイングランド遠征を行った。おそらくランフランクスの弟子であり、親しい友人であったアレクサンデル2世こそがノルマン・コンクエストに対して教皇の祝福を与えた。ギヨームはこれによって最初の内は大きな強みを得たが、結果的にはこれが深刻な困難を招くことになる。
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