修道院生活におけるルターと「神の義」とは? わかりやすく解説

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修道院生活におけるルターと「神の義」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:01 UTC 版)

マルティン・ルター」の記事における「修道院生活におけるルターと「神の義」」の解説

ルター修道生活にもすぐ慣れ祈り研究の日々すごしていた。この修道士時代に、ルターは、聖書深くむようになり、ウィリアム・オッカム思想触れた1506年には司祭叙階受けたが、初ミサ立てる中で、ルター弱く小さな人間である自分ミサ通じて巨大な神の前に直接立っていることに恐れすら覚えた当時からルターは、どれだけ熱心に修道生活を送り祈り捧げても、心の平安得られない感じていた。長上であり、聴罪司祭であったヨハン・フォン・シュタウピッツの励ましも、ルター恐れ取り除くことはできなかった。 エアフルト教えていたルターだったが、シュタウピッツ勧めもあって、できたばかりであったヴィッテンベルク大学移って哲学神学講座を受け持つことになった。彼は、ここでアリストテレスの手法を適用したスコラ学的なアプローチ限界感じ、神を理性捉えることは困難であるという理解達したその後、再びエアフルト大学教えたり修道会使命帯びてローマへ旅行するどしたが最終的にヴィッテンベルク戻り、そこで神学博士号取得して聖書注解講座受け持ったその頃からルター心を捉えて離さなかったのは、パウロの『ローマの信徒への手紙』に出る「神の義」の思想であった。いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限り善業行ったとしても、神の前で自分は義である、すなわち正しいと確実に言うことはできない。この現実直視していたルターは、苦しみ続けたが、あるとき突如として光を受けたように新し理解与えられるという経験をする。そこでルターは、人間善行協働)でなく、信仰によってのみ(sola fide)義とされること、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みであるという理解達し、ようやく心の平安を得ることができた。これが「塔の体験」と呼ばれるルター第二転機であった。ここでルター得た神学的発想は、のちに「信仰義認」と呼ばれることになる。 ルターは、この新しい「光」によって福音聖書読み直すことで、人間義化に関して理解自信増していった。「正しいものは信仰によって生きる」、かつてあれほどルター苦しめた「神の義」の解釈見直したことによって、大きな心の慰めを得るようになったのである

※この「修道院生活におけるルターと「神の義」」の解説は、「マルティン・ルター」の解説の一部です。
「修道院生活におけるルターと「神の義」」を含む「マルティン・ルター」の記事については、「マルティン・ルター」の概要を参照ください。

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