修道院長、市民、農民(11世紀から16世紀)
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「フルダ」の記事における「修道院長、市民、農民(11世紀から16世紀)」の解説
フランクフルトとエアフルト/ ライプツィヒを結ぶ街道沿いという地理上の好位置、修道院の王権との深い関係、 ボニファティウスの墓所への巡礼という3条件が、修道院の側に発生した集落に大きな影響を与えた。北部は、荘園的構造を維持したが、南部には手工業の集落が形成された。ハインリヒ2世 はこの集落に対して1019年修道院に造幣権と市場開設権を与え、関税と市場収益は王権から修道院長の手に移った。もっとも、王権は修道院域と市場集落の間の拠点は維持したようである。市場集落の中心は「聖十字架の下」(≫Unterm Hl. Kreuz≪)市場と聖ブラージウス(St. Blasius)教会であった。1114年には「フルダ市」(≫Fulda civitas≪)と刻印された貨幣が鋳造され、他の場所にも市場が開設された。修道院長マルクヴァルト1世(Markward I.; 1150-65)は12本の塔、5つの門(ヘール門、ペータース門、フローレン門、コールホイザー門、フラウエン小門)を擁する市壁と濠を整備した。中心部にはユダヤ人が居住した(1237年と1349年には迫害)。13世紀には市庁舎も建設され、郊外には旅籠が立ち並び、救貧院も置かれた。市の経済は主に毛織物の生産と取引で発展し、行政はシュルトハイス(Schultheiß)と参審団(Schöffenkolleg)がリードした。市の指導層は取引や婚姻の関係でフランクフルトとゲルンハウゼン(Gelnhausen)の都市貴族と密接に結びついていた。 フルダ修道院長はかねてからヒルデスハイム司教と確執があったが、1063年 ゴスラーでのハインリヒ4世臨席の 聖霊降臨祭のミサの最中には、教会の中で両者の配下の者たちが武器を振りかざして渡り合うという不祥事が引き起こされている。 修道院長マルクヴァルト1世(在位: 1150年 - 1165年)の下、本市は発展を遂げ、多くの失われていた所領を回復した。そのために、中世の最も有名な文書偽造家の1人であるフルダの修道士エーバーハルトが修道院長に手を貸した。修道院長マルクヴァルトは、盗賊騎士を追い出して城砦を獲得した。1162年に、市壁、12本の塔、5つの門(ヘール門、ペータース門、フローレン門、コールホイザー門、フラウエン小門)を持つ防衛施設をこの街に設けた。 修道院領は 1220年に、フリードリヒ2世の「聖界諸侯との協約」(≫Confoederatio cum principibus ecclesiasticis≪)により「帝国諸侯身分」(Reichsfürstentum)を獲得したが、修道院長の王権への奉仕(Reichsdienst)や近隣貴族・騎士(Ritterschaft und Herren benachbarter Territorien)との確執のために衰退に向かっていった。 領主・修道院長のハインリヒ・フォン・ヴァイルナウは1294年から1312年に修道院城砦を建設し、修道院外にあるその城に住んだ。この城砦は17世紀に、領主・修道院長ヨハン・フリードリヒ・フォン・シュヴァルバッハによってルネサンス様式の城館に改築された。
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