栗栖野瓦窯跡とは? わかりやすく解説

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栗栖野瓦窯跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/25 05:07 UTC 版)

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栗栖野瓦窯跡(2018年2月4日撮影)

栗栖野瓦窯跡(くるすのがようせき)は、京都市左京区岩倉幡枝町に位置する平安時代兼業窯の遺構。「」や「木工」の文字を持つ瓦の出土などにより、『延喜式[† 1]に見える「栗栖野瓦屋」に比定されている[1]座標: 北緯35度3分52秒 東経135度46分23秒 / 北緯35.06444度 東経135.77306度 / 35.06444; 135.77306 (栗栖野瓦窯跡)

栗栖野
瓦窯跡
位置図

概要

地理院地図 Googleマップ 栗栖野瓦窯跡

栗栖野瓦窯跡の発見

栗栖野窯は木村捷三郎により1930年に発見され、1934年の京都府史蹟名勝地保存委員会による瓦窯2基の発掘調査を経て、国の史跡に指定された。しかし、その範囲は限られたものであり、窯は幡枝丘陵の「城山」(じやま)の南斜面一帯に築かれたが、宅地造成により、史跡指定地以外で人知れず姿を消した窯跡もある[2]

栗栖野瓦窯を最初に発見報告した木村捷三郎は、「栗栖野瓦屋」を分布上、福枝・西幡枝・南庄田の三地区[† 2]に分けた。これらはいずれも丘陵裾の低い部分に立地しており、平地を挟んで向かい合う位置関係にある。現在、それぞれは栗栖野瓦窯跡・円通寺瓦窯跡・南ノ庄田瓦窯跡として周知の遺跡となっており、栗栖野瓦窯跡の一部は国の史跡に指定されている。栗栖野瓦窯跡は南ノ庄田瓦窯跡[† 3]より北へ約200m進んだ位置にある。円通寺瓦窯跡は鞍馬街道の峠付近に位置し、南ノ庄田瓦窯跡から直線距離で約450m西方にある。栗栖野瓦窯跡が平安時代全時期を通して操業されているのに対し、南ノ庄田・円通寺瓦窯跡では主として平安時代後期の瓦が出土する。そのため、栗栖野瓦窯跡がその中核をなし、周囲の瓦窯は一時的に操業されたとみるのが一般的である[3]

その後の発掘調査

1992年に行われた発掘調査では、平安時代前期の窖窯が発見され、中から釉滴が残る瓦や二彩釉の多口瓶の破片が出土した。岩倉盆地は瓦の生産地であるとともに、緑釉陶器の一大生産地でもあり、施釉技術も伝承された場所であった。平安宮大極殿の屋根を彩った緑釉瓦も、ここ栗栖野瓦窯周辺で生産されたのであった[4]

脚注

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注釈

  1. ^ 『延喜式』巻三十四木工車載条「凡自小野栗栖野両瓦屋至宮中車一. 両賃卅文」
  2. ^ 福枝・南庄田の呼称は小字名、西幡枝の呼称は地域の通称名に由来する。
  3. ^ 檜峠(深泥池から岩倉盆地へ入る峠)付近で発掘された瓦窯跡。

出典

  1. ^ 木村捷三郎「『史林』第15巻, 第4号『山城幡枝村発見の瓦窯址‐延喜式に見えたる栗栖野瓦屋』」1930年。
  2. ^ 京都大学考古学研究会「岩倉古窯跡群」1992年。
  3. ^ (財)京都市埋蔵文化財研究所「京都市埋蔵文化財研究所調査報告第18冊『南ノ庄田瓦窯跡』」1998年。
  4. ^ (財)京都市埋蔵文化財研究所「掘り出された京都」2012年。


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