陶邑窯跡群の発見から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 08:53 UTC 版)
「陶邑窯跡群」の記事における「陶邑窯跡群の発見から現在まで」の解説
1941年10月5日に森浩一は初めて陶邑窯跡群内の見野山窯(現 高蔵寺29号窯)を訪れ、以来1964年2月16日まで分布調査を継続し、陶邑窯跡群の実態を明らかにしていった。 1960年代以降、泉北ニュータウン等の建設によって当地に開発の手が迫ったことで、陶邑窯跡群の全貌が次第に明らかになっていった。そのなかで多くの窯跡が盗掘、破壊されていったが、一方で400ヶ所以上もの窯跡が発掘調査され、その出土資料は全国各地で出土する、古墳時代から古代にかけての須恵器の年代を推定するための編年の基準となっている(陶邑編年)。なお、出土資料の一部は泉北ニュータウン内にある大阪府立泉北考古資料館に収蔵、展示されていたが、後進の堺市立泉北すえむら資料館が2016年(平成28年)9月30日に閉館したため、堺市博物館で保管されている。
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