陶隆房の蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 15:08 UTC 版)
8月10日、武任は隆房を恐れて、大内家から三度目の出奔をして筑前に逃走する。 8月20日、隆房は興盛らと共に挙兵した。陶軍は最初に東の厳島の神領と桜尾城を接収、呼応して出陣した毛利軍も佐東銀山城や近隣地域(広島市安佐南区)を接収して、山陽道の要衝を押さえた。 8月28日に若山城から出陣した陶軍は、隆房率いる本隊が徳地口から、陶家臣の江良房栄・宮川房長率いる別働隊が防府口から山口に侵攻した。山口に入ったのは同日正午頃で、杉・内藤の軍勢も呼応して陶軍の陣営に馳せ参じた。陶軍は兵力5,000〜10,000と言われる。 これに対して、義隆の対応は非常に鈍かった。23日には陶軍の山口侵攻の噂で騒然としていたとされるが、豊後大友氏からの使者等を接待する酒宴を続けており、隆房出陣前日の27日には能興行を行っていた。隆豊は杉重矩邸への討ち入りを提案するが、義隆は「杉と内藤は敵にはならないだろう」と答えたと伝わる(大内義隆記)。 隆房の侵攻を伝える注進が届いてようやく義隆は、大内氏館・築山館を出て多少でも防戦に有利な山麓の法泉寺に退く。本堂に本陣を置き、嶽の観音堂・求聞寺山などを隆豊らが固めたとされるが、一緒に逃亡した公家たちや近習らを除けば、義隆に味方した重臣は隆豊くらいであり、兵力も2,000〜3,000人ほどしか集まらなかった。組織的な抵抗もほとんどできず、空となった大内氏館や周辺の近臣邸は、火をかけられたり、宝物を略取されたりした。前関白の二条尹房は興盛に使者を送り、"義隆は隠居して義尊を当主とする"という和睦斡旋を懇願するが、拒否されている。 法泉寺の義隆軍は逃亡兵が相次いだことから、翌29日には山口を放棄して長門に逃亡。法泉寺には、陶隆康が殿として残って討ち死にしている。なお、継室のおさいの方は、山口宮野の妙喜寺(現在の常栄寺)に逃れた。 義隆は、足を痛めながらも明朝には長門仙崎にたどり着き、海路で縁戚に当たる石見の吉見正頼のもとを頼って脱出を図ったが、暴風雨のために逃れることができなかった。引き返した義隆らは長門深川の大寧寺に籠り、隆豊らと共に戒名を授かると、9月1日の10時頃に自害した(中国治乱記)。隆豊は義隆の介錯を務めた後、陶軍の中に突撃して討死をしたと伝えられる。また義隆の嫡男・義尊も従者と共に逃亡するが、2日に陶方の追っ手によって捕らえられ、現在の俵山温泉下安田にある麻羅観音の奥で殺害された。また、三男の大内歓寿丸は女装して山中に隠れて生活していたが、翌年に捕らえられ同じく麻羅観音の奥で殺害された。ただし、義隆の次男(義尊の弟)である問田亀鶴丸は母方の祖父が内藤興盛の孫(興盛の娘の子)ということもあり助命された。 さらに、義隆を頼って京より下向していた二条尹房や前左大臣三条公頼(武田信玄正室・三条の方の父)、そして継室おさいの父官務家小槻伊治らの公家も殺害された。 義隆には家中や領民の動向が見抜けず、公卿的生活を尚んだ中央指向の姿勢を貫くため、国情を無視して臨時課役を増したことが悲劇につながったとされている。
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