陶邑窯の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 04:45 UTC 版)
古代最大の窯業地帯であった陶邑は、奈良時代後半(8世紀後半)以降は窯数が減少し始め、陶邑窯跡群の考古学的調査により、事件の起きた9世紀段階で操業していたのは「陶器山地区(とうきやまちく:MT地区)」とその周辺15基程度であったことがわかっている。9世紀半ばのMT230-I号窯を最終段階として窯操業は終焉に向かった。薪争いが発生した「陶山」とは、この陶器山地区と考えられている。 西田正規による窯跡群の炭化薪材の分析では、人間が伐採などで手を加えた林(二次林)に多いとされるアカマツを使う割合が、窯の年代が新しくなるにつれて増えるとされており、このため当時の陶邑は、木々を採り尽くしてかなりの薪不足をきたしていた可能性がある。 既に焼き物生産の中心地は、須恵器にかわる瓷器の生産に成功した猿投窯のある東海地方や、東播磨地方(兵庫県)に移っており、最大の消費地であった都が奈良の平城京から平安京へ移ったこともあり、陶邑窯の廃絶は回避不能に陥っていたとみられる。
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