尚真王時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 06:24 UTC 版)
当初の王及び陪臣の子弟から成る官生は、遊逸の性もあったためか成績も悪く、また長期の留学に耐えられる者が少なく、悉く失敗に終わったため、中央集権化を果たした第二尚氏3代尚真王はこれに替って中国系住民が多い久米村出身者から官生を選出するように制度を改訂し、成化17年(1481年)の第11回目の派遣以後、久米村民が官生の地位を独占的に占めるようになった。 久米村人は久米三十六姓とも総称されるが、洪武26年(1393年)に琉球に帰化した閩(びん)人(古閩族)の子孫とされており、帰化から120余年しか経っていない事もあって、官生に選ばれる事は伊波普猷をして「あたかも植民地から本国へ遊ぶが如く」と言わせ、いずれも修了の上で帰国を果たし、以後その多くが通訳や外交文書の作成、造船や航海といった外交に重要な働きをなし、中には謝名利山のように官生から立身して三司官に至る者が現れると、久米村における一種の既得権益と化した。
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