息子フリードリヒへの帝位相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 08:29 UTC 版)
「ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「息子フリードリヒへの帝位相続」の解説
「ローマ王」および「選帝侯」も参照 戴冠式の翌日、コンスタンツェがイェージの町で息子フリードリヒを出産した。結婚後9年の間2人の間に子が生まれていなかったこと、コンスタンツェが出産当時40歳と高齢だったために出産に疑惑がもたれ、後年にフリードリヒはコンスタンツェの子ではないという伝承が生まれる。 ハインリヒは友人であるエスリンゲンのコンラート(英語版)[要リンク修正]をスポレート公に叙し、マルケをMarkward von Annweilerに与えてイタリアの支配を固める。1195年のバーリの宮廷会議では十字軍への参加を約束し、教会との関係の改善を図った。 同年6月にハインリヒはコンスタンツェとフリードリヒをパレルモに残してローマ帝国に帰還し、十字軍の準備を進めるとともに、フリードリヒへのローマ皇帝位の世襲を計画した。年内に開催されたヴォルムスの帝国会議でハインリヒはフリードリヒのローマ王選挙を求めるが、諸侯の反対によって要求は退けられる。1196年4月に開催されたヴュルツブルクの帝国議会でハインリヒは、ローマ王位をフランスやシチリアと同様の世襲制に代えて諸侯に国王選挙権を放棄させるかわりに、諸侯にも相続権を認める「世襲帝国計画」を提案した。しかし、ケルン大司教アドルフの猛反対に遭って計画は失敗に終わった。 1196年夏にはフリードリヒのローマ王位承認を求めて教皇庁と交渉するが、交渉は頓挫する。弟のシュヴァーベン公フィリップとマインツ大司教の働きかけによって、1196年12月のフランクフルト帝国議会でようやくフリードリヒがローマ王に選出された。こうしてフリードリヒへの帝位継承が確実になると、ハインリヒは十字軍の派遣に着手した。
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