息子ヨハンのデビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:19 UTC 版)
「ヨハン・シュトラウス1世」の記事における「息子ヨハンのデビュー」の解説
1843年、ライバルだったランナーが世を去り、主な舞踏会やコンサートをヨハンが独占することとなった。この時期からヨハンは、ウィーンの『劇場新聞』やベルリンの批評家などから「ワルツ王」と評されるようになった。しかし、翌1844年には自身の息子であるヨハン・シュトラウス2世が音楽家としての活動を開始した。ヨハン2世は父の影響を大いに受けて音楽家になることを夢見ていたのだが、音楽家という職業が浮き草稼業であることを知っていたためにヨハンはそれに猛反対し、息子をむりやり総合技術専門学校(現ウィーン工科大学)に入学させた。しかしヨハン2世は夢を諦めきれず、大学を中退して音楽の勉強をし始めたのであった。 今では息子のヨハンまでもが見よう見まねでワルツを作曲する気だ。まだ取っ掛かりをうまくつかんでいないようだが……。この分野ではお山の大将である私でさえ、なにか新味のあるものを作ろうとすると、やけに難しいというのに……。 — ヨハン1世が言ったとされる言葉 ヨハンは息子の行動に驚き、そのデビューをあらゆる手段を使って妨害しようとした。ウィーン中の名だたる飲食店に圧力をかけてコンサート会場を使わせないようにし、配下の楽団員には息子に味方することを固く禁じ、あげくのはてには新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとした。この年、ヨハンは妻アンナと離婚した。 ランナーが死んで「ワルツ合戦」は幕引きとなったが、その翌年から今度はシュトラウス親子の競合の時代が始まった。1846年から47年にかけてシュトラウス親子は、同じオペラに基づく楽曲3曲をそれぞれ作曲した。これらはいずれもカドリーユであることから「カドリーユ対決」と呼ばれる。
※この「息子ヨハンのデビュー」の解説は、「ヨハン・シュトラウス1世」の解説の一部です。
「息子ヨハンのデビュー」を含む「ヨハン・シュトラウス1世」の記事については、「ヨハン・シュトラウス1世」の概要を参照ください。
- 息子ヨハンのデビューのページへのリンク