息子・亮次との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/13 00:28 UTC 版)
新左翼運動にのめりこみ穂積が産業報国会に戦前籍を置いていたことを知った高校生だった亮次から、「戦前は戦争協力者だったんじゃないか。今は議員という特権階級に身を置いて反戦も口だけだろ」と罵られ、「あの時にできた精いっぱいのことをした」と悲しげな顔をしながら答えた。学生運動について「学生諸君の言っていることは理解できる」と語り、「好漢惜しむらくは兵法を知らず」が口癖だった穂積は、その後も過激な運動に走る息子を止めることはなかった。妻と死別した後は岡山大学北津寮襲撃事件での服役から帰ってきた亮次から介護を受けていた。
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