息子・貴久の島津宗家継承
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「島津忠良」の記事における「息子・貴久の島津宗家継承」の解説
当時の島津宗家は第11代忠昌の死後、守護職を継いだ長男の第12代忠治、次男の第13代忠隆が若年で相次いで病死し、はじめ頴娃氏の養子に入っていた三男の忠兼(後の勝久)が永正16年(1519年)に継いだ。だが急遽後を継いだこともあり政権基盤も弱く、守護と言えど各地の在郷領主を抑える力はなかった。忠兼ははじめ出水に拠点を持つ有力分家の薩州家第5代当主・島津実久の助力を得て勢力を挽回することを図り、実久の姉を正室に迎えて国政を委任していた。しかし実久は権力をほしいままにし、当時まだ男子のなかった忠兼に対して自身を世子にするよう迫ったので、忠兼は正室を離縁し実久を遠ざけた。すると実久は兵を挙げて反攻に及び、忠兼を鹿児島から追放して守護を自称するまでに至り、領内は騒然となった。大永6年(1526年)、実久の専横に対し忠兼は英明の誉れ高い忠良に支援を求めた。忠良は国政委任を引き受けるとともに、自身の長子虎寿丸(後の貴久)を忠兼の養嗣子として送り込んだ。同年11月27日、忠兼は元服した貴久に守護職を譲り忠良にその後見を依頼、自らは出家して伊作に隠居した。これを見届けた忠良は33歳で剃髪して愚谷軒日新斎と号し、以後貴久を輔佐して三州統一に邁進することになる。ただし、このことを報じた島津忠朝の書状によれば、貴久への守護職譲渡は大永7年(1527年)4月のこととされている。
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