息子・貴久の島津宗家継承とは? わかりやすく解説

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息子・貴久の島津宗家継承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 01:18 UTC 版)

島津忠良」の記事における「息子・貴久の島津宗家継承」の解説

当時島津宗家は第11代忠昌の死後守護職継いだ長男第12代忠治次男第13代忠隆が若年相次いで病死し、はじめ頴娃氏養子入っていた三男の忠兼(後の勝久)が永正16年1519年)に継いだ。だが急遽後を継いだこともあり政権基盤弱く守護と言えど各地在郷領主抑える力はなかった。忠兼ははじめ出水拠点を持つ有力分家薩州家5代当主島津実久助力得て勢力挽回することを図り実久の姉を正室迎えて国政委任していた。しかし実久権力ほしいままにし、当時まだ男子のなかった忠兼に対して自身世子にするよう迫ったので、忠兼は正室離縁し実久遠ざけた。すると実久兵を挙げ反攻に及び、忠兼を鹿児島から追放して守護自称するまでに至り領内騒然となった。大永6年1526年)、実久専横対し忠兼は英明誉れ高い忠良支援求めた忠良国政委任引き受けとともに自身長子寿丸(後の貴久)を忠兼の養嗣子として送り込んだ同年11月27日、忠兼は元服した久に守護職譲り忠良その後見を依頼、自らは出家して伊作隠居した。これを見届けた忠良33歳剃髪して愚谷軒日新斎と号し以後貴久を輔佐して三州統一邁進することになる。ただし、このことを報じた島津忠朝書状によれば、貴久への守護職譲渡大永7年1527年4月こととされている。

※この「息子・貴久の島津宗家継承」の解説は、「島津忠良」の解説の一部です。
「息子・貴久の島津宗家継承」を含む「島津忠良」の記事については、「島津忠良」の概要を参照ください。

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