ワルツ合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:19 UTC 版)
「ヨハン・シュトラウス1世」の記事における「ワルツ合戦」の解説
ランナーとの対立が決定的となったのは、1828年にウィーン郊外の舞踏場ボックで演奏を行った時である。ランナーとシュトラウスは揃って演奏したが、どういうわけか激しい口喧嘩が始まり、やがてヴァイオリンの弓や譜面台や太鼓のばちが空中を飛び交うありさまとなった。ふたりの関係は完全にこじれ、シュトラウスは自身の楽団を組織して自立した。こうして、世に「ワルツ合戦」と称される両者の激しい競合が始まった。(多くの伝記に書かれている出来事であるが、現場目撃者による記録は存在せず、実際には乱闘事件はなかったとみる向きもある。) シュトラウスとランナーはウィーンで絶対的な人気を誇り、1829年にワルシャワからやって来たショパンは「ワルツ合戦」の影に隠れて注目を集めることができなかった。最初の自作ワルツ『華麗なる大円舞曲』をウィーンで出版することを望んでいたショパンであったが、断念せざるを得なかった。この際にショパンはこう嘆いた。 「 ウィーンでは太陽は登りたがらない。ランナーとシュトラウス、それに彼らのワルツが、すべてを陰らせてしまうのだ……。 」 ヨハンとランナーは訣別から3年後の1831年に仲直りをしたが、かつてのような心を開きあった交際に戻ることはできなかった。 ヨハンはヨーロッパ中の大都市に演奏旅行をするようになり、ワルツの人気はとりわけ西ヨーロッパを風靡した。1838年、ヴィクトリア女王の戴冠式に合わせて、ワルツが冷遇されていたイギリスへの演奏旅行を行い、イギリスでもワルツを認めさせたことはヨハンの大きな功績のひとつである。1838年のシュトラウスについて、ベートーヴェンの弟子であったイグナーツ・モシェレスは、「まじめなロンドンの人々でさえも、ヨハン・シュトラウスの虜になっている」と記録している。
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