ワルツは私と
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:37 UTC 版)
詳細は「ワルツは私と(英語版)」を参照 1932年、ボルチモアにあるジョンズ・ホプキンス大学病院付属のフィップス診療所で治療を受けている間、ゼルダの創造力はたくましかった。診療所に通い始めてから6週間で小説を最後まで書いてしまうと、『ワルツは私と』の題でスコットの小説を出していた出版社のマクスウェル・パーキンズに送った。 その1週間後にゼルダの本を読み通したスコットは、この本は自分たち夫妻の結婚を扱った半自伝的な作品であり、妻に宛てた手紙のなかで、この小説にある自伝的な要素は自分が『夜はやさし(英語版)』で使う予定だったと怒り、非難している(『夜はやさし』は、最終的に1934年に出版された)。 スコットは本を書き直すようゼルダに迫り、自分が使いたかった題材をもとにしている箇所を削除させた。しかし、大恐慌がアメリカを襲うなかスクリブナー社は本を出版することに同意し、3010部を刷って1932年10月7日に発売した。 二人と小説の類似は明らかだった。南部出身の判事を父にもつ、ゼルダに似た主人公のアラバマ・ベッグスは、突然作品が知られ有名になる野心的な画家デイヴィッド・ナイトと結婚する。二人はコネチカットで放蕩生活を送り、その後はフランスで暮らす。結婚に満足できないアラバマはバレエの道に身を投じる。チャンスはないと告げられるが、彼女はそれに耐え、3年後にはオペラ団のリードダンサーになる。しかしアラバマはノイローゼになり病にかかる。小説の終わりで二人は、アラバマの父が死の床に伏す南部の彼女の家族のもとに帰る、という内容であった。 テーマからみると、小説は「人生について助手席からあれこれ口を出す」人間から成長しようともがくアラバマの(つまりゼルダの)姿を描いており、彼女は夫によりかからずに自分自身で成し遂げたことに関心を持ってもらおうとする 。ゼルダの文体はスコットのそれとはまったく異なっていた。『ワルツは私と』は言葉遊びと複雑な隠喩に満ちており、同時にきわめて官能的な小説でもあった。文学者のジャクリーヌ・タヴェルニエ=クルバンは1979年にこう書いている。「この官能性がどこから起こるかといえば、あらゆる描写にみてとることができる、彼女のうちに渦巻く生命、身体への意識、感情だけでなく単純な事実の表現を通じた自然なイメージ、特に触覚と嗅覚の圧倒的な存在感にアラバマが向ける視線から生じているのである」。 しかし、当時この本は批評家からの評価が芳しくなかった上に、売れたのがわずかに1,392部で、ゼルダを落胆させた。彼女の印税収入はわずか120.73ドルだった。スコットからの非難と、「三流の書き手」という酷評にゼルダはひどく落胆し、結局『ワルツは私と』は、彼女が生前に出版した唯一の小説となった。
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