息子イシュトヴァーンとの争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 01:24 UTC 版)
「ベーラ4世 (ハンガリー王)」の記事における「息子イシュトヴァーンとの争い」の解説
1246年、ベーラは長子イシュトヴァーンにクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの統治を任せるが、息子と共同統治を行う意思は無かった。しかし、1258年にイシュトヴァーンはベーラに対抗するための軍勢を集め、トランシルヴァニアの統治権を譲渡するようベーラに迫る。同年、ボヘミアの統治を望むスティリアの貴族たちが反乱を起こし、鎮圧の軍を送らなければならなかった。反乱の鎮圧後、ベーラはイシュトヴァーンにスティリア公(英語版)領を与える。しかし、オタカル2世の支援を受けたスティリアは再び反乱を起こした。ベーラはイシュトヴァーンとともにボヘミアを攻撃するが、1260年7月12日のクレッセンブルンの戦い(グロイセンブルン)でハンガリー軍は敗北する。戦後1261年のウィーンの和議で、ベーラはやむなくスティリア公領を手放した。 スティリアの放棄後、イシュトヴァーンはスティリアに代わる領地を要求するようになる。1261年にベーラはイシュトヴァーンとブルガリアへの共同出兵を行った。ベーラはイシュトヴァーンの弟であるスラヴォニアのベーラとボヘミアに嫁いだ娘アンナを寵愛しており、イシュトヴァーンとの関係は次第に悪化していく。 イシュトヴァーンはベーラと対立する貴族を集め、対抗する意思を見せた。1262年の夏にエステルゴム大司教とカロチャ大司教の仲介によって2人はポジョニ(現在のブラチスラヴァ)で和議を結び、合意に基づいてイシュトヴァーンは若王の称号を与えられドナウ川以東の地域を支配した。しかし、双方の支持者は互いの領地を攻撃しあい、ベーラとイシュトヴァーンは支持者を増やすために王領の下賜を乱発、王国は内戦状態に陥った。 1267年に現状に不満を抱く各地の中小貴族層はエステルゴムで集会を開き、2人の王に要求を突き付けた。国内の秩序を回復するために2人の王は請願を受諾し、ベーラ、イシュトヴァーン、スラヴォニア若公のベーラ3名の名前で「1267年法令」が発布される。請願には中小貴族の権利を守る条文が記され、ベーラが実施した植民政策や文書主義に反対する条文も盛り込まれていた。
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