教会再一致への情熱
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「ジャン・ジェルソン」の記事における「教会再一致への情熱」の解説
1392年、ジェルソンは博士号を取得した。1395年にはル・ピュイの司教に選ばれたピエール・ダイイの後任として32歳でパリ大学総長に選ばれた。改革への熱意に燃えるジェルソン総長のもと、パリ大学の名声は頂点に達した。王権と教皇権に対する大学の自主性を主張しただけでなく、大学の研究環境と教員たる聖職者たちのモラルを向上させたことで、パリ大学にはヨーロッパ中から優れた学生たちが集まった。しかしジェルソンの著作を分析すると、この時代のジェルソンは一方で職責の重さに悩んでいたこと、終日書簡の執筆と自著の分析に追われていたことがわかる。彼の著作は3つの時代に区分できる、第1は大学改革に取り組んだ時代、第2は教会分裂の収拾にかけた時代、最後は晩年の信心書の執筆に情熱を注いだ時代である。 ジェルソンの最大の業績はなんといってもカトリック教会の大危機であった教会大分裂(シスマ)を克服させたことである。1378年のグレゴリウス11世の死後、教会には2人の教皇が立っていた。これは中世の人から見れば、唯一であるはずの教会が2つになり、1人であるはずのキリストが2人になったかのような異常事態であった。教会分裂のもともとの原因はフランス王にあったため、心あるフランス人たちはその責任を感じていた。ジェルソン、ピエール・ダイイ、クラメンゲスのニコラスといったパリ大学の重鎮たちは教皇クレメンス7世の時代、パリ大学の名において教会分裂収拾への3つのロードマップ(あるいは選択肢)を提示した。それは「協議の道」(Via Concessione)、「妥協の道」(Via Compromissi)、「公会議の道」(Via Concili)といわれるものであった。フランス王や教皇たちに働きかけるパリ大学の努力が続けられた結果、ついに対立する教皇たちに協議についての合意を取り付けるまでに至った。 しかし、ヨーロッパの諸王たちは、分裂の収拾において教皇たちが話し合って解決するよりは、各国の枢機卿団の思惑が通りやすい公会議のほうが自分たちの政治的意向を反映させうると考え、公会議開催への世論と圧力を高めていった。ジェルソンは多くの文書をあらわして分裂収拾を方向付けていったが、そこからは初めは「協議の道」にかけていた希望が結局教皇たちの指導力のなさによって果たされず、徐々に公会議への期待に転換していくことが読み取れる。
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