ナッサウ都市ウージンゲン
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「ウージンゲン」の記事における「ナッサウ都市ウージンゲン」の解説
1208年以後1世紀にわたってウージンゲンに関する出典は沈黙を続けた。1326年に再び直接的な記述が現れる: ディーツ伯の子孫であるハインリヒ・フォン・ノイヴァイルナウからナッサウ伯ゲルラハ(ドイツ語版、英語版)が獲得した質草の中にウージンゲンが「村」として記されている。ゲルラハの息子アドルフ(ドイツ語版、英語版)とヨハン(ドイツ語版、英語版)はこの所領の領主権を1346年に引き継いだ。9年後の1355年に兄弟間で所領が分割され、ウージンゲンはナッサウ=ヴァイルブルク=ザールブリュッケンの一部としてヨハンのものとなった。村から都市への発展はここから始まった。防衛のための城砦または城館が築かれたのである。 500年以上の間ウージンゲンはナッサウ家の高権下にあった。 14世紀後半にこの街に防衛施設が築かれ、都市権が授けられた。現在のクリスティアン=ウィルト=シューレの場所にあったナッサウ家の城と5つの門を持つ市壁がこの小都市を護っていた。これは入植の重点が最終的に谷から高台に移ったことをも意味している。こしたプロセスがいつ、なぜ起こったのかは判っていない。 ヨハン伯の後、息子のフィリップ(ドイツ語版、英語版)が領主となった。1405年にはノイヴァイルナウに対する領主権も獲得した。これによりウージンゲンは最終的にナッサウの所有に移された。 ナッサウ=ヴァイルブルク伯フィリップ3世(ドイツ語版、英語版)はウージンゲンに宗教改革をもたらした。それはフィリップの宮廷説教師ヘンリクス・ロマヌスによるウージンゲンの教会における1527年6月9日の説教で始まった。1528年には本市におけるカトリック教会の礼拝が停止された。 ウージンゲンの城館は、1560年に完全に改築され、拡張された。1635年にこの城館(と都市の大部分)は、三十年戦争でスペイン軍がこの街を略奪にする際に起こした火災の犠牲となった。 1659年から、ナッサウ=ウージンゲン伯(1688年から1744年までナッサウ=ウージンゲン侯)は美しい庭園を有する城館に拡張された城に住んだ。 ウージンゲンの歴史で傑出した人物がヴァルラート侯(ドイツ語版、英語版)である。1659年3月31日のナッサウ=ザールブリュッケン地方の分割により彼はウージンガー・ラントを獲得した。彼は43年間統治し、特にオランダの元帥オラニエン公ウィレム3世に心を砕いた。彼は現在の都市景観を創りだした。彼は17世紀の三十年戦争や2回の大火(特に1692年の都市火災)による住民減少を、ユグノー派信者を住まわせることで回復させ、新市街を設けたのである。 ヴァルラートの息子で後継者のヴィルヘルム・ハインリヒ侯(ドイツ語版、英語版)の下で、ヴィルヘルムスドルフ地区が建設された。その息子のカール侯(ドイツ語版、英語版)は、1744年に宮廷をウージンゲンからヴィースバーデン=ビープリヒに移した。これによりウージンゲンの宮廷都市時代は幕を閉じた。この街はその後1886年までアムト・ウージンゲンの主邑であり続け、その後1972年まで郡庁所在地となっていた。近代の緩やかな工業発展は1895年の鉄道網への接続によっても強化されることはなかった。
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