入場行進
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「2006年アジア競技大会の開会式」の記事における「入場行進」の解説
選手の入場はアルファベット順に入場し、日本は13番目に入場。5大会ぶりの参加となるイラクも入場。韓国と北朝鮮との南北合同入場行進も前回の釜山アジア大会に引き続き行われた。最後の行進となったカタールは5万人の大観衆の歓迎を受けた。
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入場行進
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「1964年東京オリンピックの閉会式」の記事における「入場行進」の解説
入場行進は、開会式と同じように防衛大学生が持つプラカードと各国の旗手だけが国旗を持って入場し、最後の日本選手の日の丸の国旗の後に整然と国別に行進するため、各国の選手団が国立競技場に入る前に国別に整列し入場を待つ予定であった。しかし、全ての競技を終えてリラックスした各国の選手団が係員の指示に従わず、その結果入り乱れたままになって、そのままで閉会式になだれ込むような形になった。 解き放たれたように、各国の選手たちは入り乱れたままばらばらに行進していった。国旗を持つ旗手の行進の最後尾は開催国日本の福井誠(競泳)であったが、すぐ後ろを行進する選手たちが彼を肩車して行進し、様々な国の選手が入り混じり腕や肩を組み合い入場する、かつて見られなかった形となった。 国立競技場に入場した後も選手の中にはお互いの姿をカメラで撮影 したり、公式スーツではなく競技用ユニフォーム で参加する者もいた。さらに別の国の選手を肩車で担いだり、列になり踊る選手がいるなど秩序が無いものとなったが、そのために却ってまさに「平和の祭典」を体現した和気あいあいとした雰囲気のものとなった。こうした自由な入場スタイルは1956年のメルボルン大会で初めて採用されたものだが、人気競技である陸上の日程の多くが前半で終了し、選手たちが帰国したことも手伝って盛り上がりを欠いた。1960年のローマ大会では前回大会の反省を踏まえ、陸上競技の日程を後半に組み、また閉会式も厳かなスタイルに戻した。しかし、東京大会では、後に「式典の神様」と呼ばれるようになる日本体育協会式典部長の松沢一鶴が中心となって、選手村の宿泊費などの費用を日本が負担し、選手たちが喜ぶイベントを仕掛けるなど、選手をできる限り閉会式まで引き留めるアイデアを実施した。そして、閉会式が訪れると、松沢は組織委員の矢田喜美雄が提案した仰天プランを決行した。男子マラソン金メダリストのアベベ・ビキラを先頭に、国、人種、性別の垣根を超え、選手が一団となって入場したのである。これが好評を得たこともあり、その後のオリンピックではこの「東京式」が採用されるようになった。 日本選手団は各国選手が全て入場した後に、一団となって組織された行進 で入場した。前の方はメダルを獲得した選手の集団で女子バレーボールや女子体操の選手も入り、緊張感はなく終わった安堵感を漂わせながら行進して行った。 このとき、NHKテレビで実況を担当した土門正夫は予定外の状況に戸惑い(後に『ありゃ、これは何なんだ』と入場行進で入ってきた選手を見て仰天したことをテレビ番組で語っている)、カメラに映し出される情景を随時伝えていった。予定されていたプログラムと大きくかけ離れたことから、予定にない実況を行うこととなったため、他の中継スタッフともども大変な放送をしてしまったという思いを抱いていたが、終了後に渋谷のNHK放送センターに戻ると、他の職員たちから賞賛の拍手を受けることになったという。 なお、10月10日の東京オリンピック開会式にイギリス領北ローデシアとして参加したザンビアは、閉会式の日にイギリスから独立し、新国名のプラカードと新国旗を手に入場行進 した。
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