1970年代/1980年代とは? わかりやすく解説

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1970年代/1980年代

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カントリー・ポップ」の記事における「1970年代/1980年代」の解説

1970年リン・アンダーソン発表したローズ・ガーデン ((I Never Promised You a) Rose Garden)」は、1970年から1971年はじめにかけて、ジャンル境界越えてカントリー・チャートで首位、ポップ・チャートでも最高3位達し、「カントリー・ポップ世界的な大ヒットとなった。この曲により、アンダーソン1971年第13回グラミー賞で最優秀女性カントリー・ヴォーカル・パフォーマンス賞(英語版)を受賞した1973年当時13歳だったマリー・オズモンドがデビューシングル選んだのはアニタ・ブライアントの「ペーパー・ローゼズであったオズモンドは同曲をカントリー調にアレンジしビルボードのカントリー・チャートで1位を記録した。 後にメインストリームポップ歌手へと転進したイギリス生まれオーストラリア育ちオリビア・ニュートン=ジョンは、1973年ヒットしたレット・ミー・ビー・ゼア (Let Me Be There)」により、1974年第16回グラミー賞で最優秀女性カントリー・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞し、さらに「愛しい貴方 (If You Love Me (Let Me Know))」などが評価されて、1974年カントリーミュージック協会賞女性ボーカリスト賞 (Female Vocalist of the Year) を獲得して最初はまずカントリー・ポップ歌手として有名になった。 1970年代半ばからソロ歌手として活動始めたケニー・ロジャースは、1977年に「ルシール (Lucille)」がカントリー・チャートで首位、ポップ・チャートでも最高5位に達し以降同様にカントリーポップ両方チャート楽曲送り込み、後には「カントリーポップス界の大御所」とも呼ばれたまた、1960年代からカントリーチャート多数ヒット曲出していたドリー・パートンは、1970年代半ばからジャンル超えてポップ系の市場にも進出を図るようになり、1977年の「Here You Come Again」がカントリー・チャートで首位5週、ポップ・チャートでも最高3位ジャンル超えた大ヒットとなったその後同様のジャンル超えたヒット連発しカントリー・ポップ歌手見なされるようになったガース・ブルックスシャナイア・トゥエインは、1990年代に最も成功したカントリー・ポップ歌手であった

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1970年代 - 1980年代

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東急バス」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説

1971年昭和46年6月30日長野線廃止1973年6月昭和48年):乗合バス全車ワンマン化。 1974年昭和49年):江の島線廃止1975年昭和50年12月24日デマンドバス東急コーチ自由が丘線自由が丘駅 - 駒沢運行開始貸切扱い運行1981年昭和56年6月23日青葉台営業所開設高津営業所から一部路線移管される。 1982年 第三京浜経由京浜線二子玉川園駅 - 横浜駅西口間)廃止1984年昭和59年3月15日駒沢営業所営業終了1986年昭和61年都市新バスシステム東急バス新交通システム」を目黒営業所管内導入8月23日虹が丘営業所開設高津営業所青葉台営業所から一部路線移管される。 1987年昭和62年5月16日高速通勤バス運行取り止め1988年昭和63年10月25日夜間高速バスミルキーウェイ和歌山線渋谷 - 和歌山)、酒田線渋谷 - 鶴岡酒田)を運行開始夜行高速バス参入12月21日夜間高速バスミルキーウェイ出雲線渋谷 - 出雲運行開始1989年平成元年3月3日夜間高速バスミルキーウェイ姫路線(渋谷 - 神戸姫路運行開始7月3日深夜急行バスミッドナイトアロー渋谷駅 - 青葉台駅運行開始

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1970年代 - 1980年代

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ジャズ」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説

70年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバー呼ばれるスタイル変容していく。この時期大ヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかく語りき」である。さらには70年代半ばには、フュージョン呼ばれるスタイル発展していく。フュージョンリー・リトナーラリー・カールトンアル・ディ・メオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフクルセイダーズスパイロ・ジャイラジョージ・ベンソンチャック・マンジョーネグローバー・ワシントン・ジュニアらも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性娯楽性からフリー・ジャズビバップアーティストジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応受けた。これは商業芸術かといった、普遍的な問題表れでもあった。

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1970年代 - 1980年代

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マッドハウス」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説

東映動画テレビシリーズ参加するとともに出崎統杉野昭夫コンビによる東京ムービーテレビシリーズ中心にした。これは東京ムービー社長藤岡豊マッドハウス設立にあたって資金援助した関係によるもの。出崎と杉野スタジオあんなぷる設立して独立し丸山正雄社長に就いた1980年代には主にりんたろう監督する角川書店製作の劇場向け作品オリジナルビデオアニメOVA)を中心に制作していた。

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1970年代 - 1980年代

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ハートにファイア」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説

ウォーターゲート事件 - 1974年リチャード・ニクソン大統領辞任きっかけとなったスキャンダルパンク・ロック - 1970年代中期ニューヨークロンドン等で起こった音楽ムーヴメントメナヘム・ベギン - イスラエル首相1977年就任ロナルド・レーガン - 元俳優で元カリフォルニア州知事1980年選挙アメリカ合衆国大統領就任パレスチナ問題 旅客機テロ - 1970年代から1980年代初頭にかけ頻発したイラン革命 - 1979年発生ソ連のアフガニスタン侵攻 ホイール・オブ・フォーチュン - アメリカゲーム番組サリー・ライド - 1983年アメリカ女性としては初の宇宙飛行成功させるヘヴィメタル自殺 - 1980年代、ヘヴィメタル・ミュージシャン(オジー・オズボーンジューダス・プリースト)の曲を聴いて子どもが自殺した主張する裁判が行われた。判決では、両アーティストとも自殺の原因ではないとされた。 外債 ベトナム戦争帰還兵ホームレス問題 エイズ - 1981年初め症例報告され、社会問題となる。 クラック - 麻薬。 バーニー・ゲッツ - ニューヨーク地下鉄で、自分恐喝しようとした若者4人に対し発砲した人物浜辺注射器 - ニュージャージー州における医療廃棄物不法投棄問題六四天安門事件 - 1989年6月中華人民共和国北京天安門広場にいたデモ隊数千人が軍隊虐殺され事件ロックンローラーコーラ戦争 - ペプシコーラコカ・コーラ広告合戦両社ともCMに有名ミュージシャン起用した

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1970年代 - 1980年代

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4分33秒」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説

映像作品でも『4分33秒』の演奏流されケージ自身出演するときもあった。美術家ビデオアーティストナム・ジュン・パイクは『ジョン・ケージ讃』(1974年)というテレビ番組製作しボストンWGBH-TV放送された。この番組ではケージによる『4分33秒』の演奏があり、ニューヨークのハーバード・スクエア(英語版)で学生乗り物雑踏包まれピアノ前に座っている演奏と、ピアノがなく静かな演奏2つ撮影されている。 1982年は、ケージ70歳記念するイベントニューヨーク東京ミラノプエルトリコサンフアンパリなど世界各地行われたニューヨークアッパー・ウエスト・サイドでは「すみからすみまでジョン・ケージ」というマラソン・コンサートで26作品演奏され、『4分33秒』はチューダー演奏したケージ1989年11月京都賞受賞のために来日した京都では11月12日記念講演コンサート名古屋では11月14日記念コンサート開催されコンサート企画した藤島寛はケージに『4分33秒』の演奏依頼した。そこでケージは、『4分33秒』の続編にあたる『One3』演奏した後述)。 ケージは『4分33秒』を好んでいる点を、以下のように語っていた。 ……この音のない作品で私が気に入っていることは、これを演奏することはいつでもできるのに、それは演奏されたときにしか生き始めないという点です。そしてそれが実際に演奏されるたびに、驚くほど生き生きとした経験をすることができるんですよ。

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1970年代 - 1980年代

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八幡浜市」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説

九州四国を結ぶ連絡港として施設拡充する一方この年代の後半沖新田魚市場整備され水産物流通拠点として活況を呈する温州ミカン1972年昭和47年)に全国的な生産過剰による価格大暴落契機に、品種更新始まり宮内伊予柑比率が高まる。1984年昭和59年3月八幡浜浄水場完成し1986年昭和61年1月から八幡浜市保内町暫定給水開始し夏季水不足緩和された。 西暦年号略年1971年 昭和46年 国道197号線八幡浜大洲夜昼トンネル開通 1972年 昭和47年 フェリー桟橋関連施設整備 1974年 昭和49年六神山工跡地王子公園建設 1980年 昭和55年 八幡浜魚市場統合され八幡浜市水産物地方卸売市場開設 1982年 昭和57年 諏訪自然休養林完成

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1970年代 - 1980年代

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サッカーイタリア代表」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説

欧州王者として、2年前とほぼ変わらぬメンバー臨んだ1970年W杯メキシコ大会では、グループリーグ突破準々決勝では開催国メキシコ下し準決勝西ドイツ対戦アステカ・スタジアム行なわれ試合前半8分に先制点挙げリード迎えた後半ロスタイム西ドイツ同点ゴール許し延長戦突入延長戦では打って変わって両者合わせて5ゴール生まれ激しい点の取り合いとなり、最終的にジャンニ・リベラ決勝ゴール4-3死闘制した。この試合は、「アステカ死闘」とも呼ばれW杯史上数ある名勝負ひとつとして語り継がれている。決勝相手同じく2度優勝を誇るブラジル。この試合は、勝てば3度目優勝と、規則によりW杯3回制したチーム与えられるジュール・リメ杯の永劫所有権懸けた一戦となった。しかし準決勝激闘による疲労と、ペレ擁するブラジル圧倒的な攻撃力前になす術も無く1-4完敗準優勝となった1978年アルゼンチン大会では、ロベルト・ベッテガパオロ・ロッシ2トップ躍動し1次リーグを3戦全勝勝ち上がり、4位と好成績を残す。 2度目自国開催となったUEFA EURO 1980では、パオロ・ロッシ国内リーグ八百長疑惑巻き込まれ2年間の出場停止処分受けてしまい、得点源を失った影響ベルギーに総得点差で敗れグループリーグ2位終わり決勝進出逃し、4位という結果で終わる。 2年後1982年W杯スペイン大会開幕直前処分解けたロッシベアルツォット監督は代表に招集したことで、懐疑的な声が多く挙がり批判浴びた当時司令塔ジャンカルロ・アントニョーニドリブラーブルーノ・コンティキャプテンGKディノ・ゾフタレント揃っていたものの、優勝候補挙げる者は少なかった案の定1次リーグは、ロッシが全くの不発無得点終わり、3戦とも引き分けと大苦戦。総得点差で辛くも突破した。だが2次リーグではアルゼンチン戦勝利すると続くブラジル戦で、突如としてロッシ復活ジーコ黄金のカルテット擁し史上最強といわれたブラジル相手ハットトリック大活躍。結果3-2優勝候補ブラジル下し準決勝進出した準決勝ポーランド戦でもロッシが2得点挙げ2-0勝利決勝西ドイツ対戦。ここでもロッシ先制ゴール挙げ3-1西ドイツ勝利復活したエース活躍1938年以来44年振り3度目優勝輝いた。なおロッシ大会MVP得点王の2冠を達成している。 史上2度目連覇目指し臨んだ1986年メキシコ大会では、決勝トーナメント1回戦プラティニ率いフランス0-2敗戦ベスト16大会を去ることとなり、連覇の夢は潰えたUEFA EURO 1988では、2年後自国開催W杯見据えジャンルカ・ヴィアリジュゼッペ・ジャンニーニパオロ・マルディーニ若手主体チーム挑み準決勝ソ連敗れはしたものの、ベスト4好成績残した

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1970年代 - 1980年代

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ゲイ・アイコン」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説

1970年代のゲイディスコシーンにおける最初ゲイ・アイコンは"クイーン・オブ・ディスコ"と称されドナ・サマーであり、彼女のダンスナンバーはクラブ好きのゲイコミュニティアンセムであった。彼女の代表曲"Love to Love You Baby"(邦題:愛の誘惑)はゲイ・アンセム留まらず、"absolute disco epic"(完全なるディスコ叙事詩)とまで評さるほど全てのセクシャリティ渡って愛された。この曲はヨーロッパディスコから火が付いたアメリカ飛び火しレコード界のムーブメント数年渡り影響を受けるほどのインパクトがあった。しかしながらエイズ禍広がり見せ始めた1980年代キリスト教信仰し始めたサマーは、「AIDSゲイ対す天罰である」と同性愛嫌悪意見述べたというデマ流れ批判の波に巻き込まれることになる。この事件で彼女はゲイ・コミュニティから見放されることになった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}1983年アトランティックシティの後、カムバック果たしたことを大変喜んでいたサマーファン話していた。サマーキリスト教信仰新たに始めたことを知るエイズ患者男性ファンが、サマー自分のために祈り捧げて欲しいとお願いし、彼女は喜びを口にしていたが、誰かが彼女の行為偽善的だと騒ぎ出したその時点で会場ファンどよめき走り非礼な一部ファンが「劇場から出ろ」と叫ぶなど、多く目撃者加熱した現場に陥っていたと証言している。サマーは「ゲイコミュニティエイズ表れたのは、無謀なライフスタイル原因だ」と述べているが、「エイズが神からの罰」とは語っていなかったと状況を知る複数ファン証言している。サマーゲイファンが共に祈り前述ファンキリスト教えに戻るよう声を掛けて抱擁交わした。 —D.L. Groover、OutSmart magazine 1980年代中盤の間、サマー広報デマについての否定声明数回渡って出しレコード業界ゲイコミュニティ一部が彼女を支え続けたしかしながらサマー自身はこの件について沈黙続け、彼女が直接言及するのは数年後のことになる。1989年雑誌アドボケートインタビュー答え自分キャリアはオープンゲイの多くスタッフと共に築いてきたし、ゲイ理由に彼らを批難したことは一度も無いと述べ、「私は性的指向で人を見たりしないゲイストレートかで人を判断したりしないわ。私の愛は人として思いやりから成っているのよ。」と述べた。同じディスコシンガーグロリア・ゲイナーも彼女のシングル"I Will Survive"がフェミニストゲイ社会運動アンセムになっていることでゲイコミュニティからの大きな支持受けていた。さらにダイアナ・ロスグレース・ジョーンズ、メルバ・ムーア、ロリータ・ハロウェイらも、DJゲイの客を中心にした70年代ディスコ・シーンと、LGBTコミュニティから厚い支持受けた歌手キャス・エリオットソロ時代ママス&パパスメンバー時代通じてゲイ・アイコンとしてしられている。彼女のキャンプファッション性個性尊重する歌詞("Make Your Own Kind of Music"や"Different"など)や、自由な恋愛歌唱力インパクトでも知られている。彼女の曲は1996年ゲイ映画とても素敵なこと-初恋のフェアリーテール-」が使われている。歌手女優ベット・ミドラー1970年代ゲイ・アイコンとして認識されるが、ブロードウェイシアターでのパフォーマンスの後、ニューヨークゲイ向けバスハウスのContinental Baths内のクラブパフォーマンス始めた。彼女はここでピアノ伴奏お願いしたバリー・マニロウ親しくなり、その後彼がミドラー最初メジャーアルバム「The Divine Miss M」(1973年)をプロデュースすることとなる。 (エイズ禍が)広まる場所だったけど、(バスハウスで歌っていた)あの頃今でも誇りに思うわ。ゲイ解放運動先端立っているような気分だったし、私もその役に立っていたと思いたいわ。そう、誇り持って「バスハウスのベティ」って肩書き持っているのよ。 —Bette MidlerHouston Voice 70年代から80年代掛けてゲイコミュニティ大きな支持得ていたアーティストに、ダイアナ・ロスグレイス・ジョーンズ、Charo, エレイン・ペイジ,、 ドリー・パートンがいる。またイギリス人には、作家クエンティン・クリスプとクイーンメンバーフレディ・マーキュリー二人ゲイが、またバイセクシャルではデヴィッド・ボウイ らがゲイ・アイコンにいる。エルトン・ジョンもこの時代ゲイ・アイコンとなっていたが、90年代にかけてより大きな存在になっていく。 ディスコ・ポピュラーミュージックの歌手女優シェール(Cher)は彼女の音楽性だけでなく、映画シルクウッドレズビアン演じてアカデミー助演女優賞ノミネートされるなど、ゲイコミュニティ重要な人物だ。彼女の娘Chastity Bono17歳時にカムアウトしたが、シェール最初に感じたことは「自責心、恐れ哀しみであったという。シェールが娘の性的指向受け入れることができた時に、彼女は自身の娘やLGBT人々が「不公平にも、誰もが持つのと同じ権利持っていない」という事実を実感したシェールLGBT人々ゲイ・アイコン留まらず、ゲイ・レズビアン・バイセクシャル・トランスジェンダーの子を持つストレートの親の手本となる人物にもなった。シェール1997年のPFLAG(レズビアン・ゲイの家族と友人の会)国際会議基調講演務めたシェール音楽界における長いキャリア多くのゲイファンの支持集め続けている。"Gay Pride: A Celebration of All Things Gay and Lesbian"の著者William J. Mannは、「私たち60歳になっても、90になったシェール音楽踊っているだろう。」と述べている。 メディアから"クイーン・オブ・ポップ"、"クイーン・オブ・ダンス"の異名呼ばれギネス・ワールド・レコーズに「世界で最も成功した女性歌手」の記録打ち立てた、ポップシンガーのマドンナ(en:Madonna_as_gay_icon)は、20世紀末におけるゲイアイコンの星とも言える人物になった雑誌The AdvocateSteve Gdulaは、「1980年代から90年代前半にかけて、マドンナビデオやシングルリリースは、祝日が来るようなものだった少なくとも彼女のゲイファンにはね」。また、Gdulaはアメリカ国内ゲイ男性エイズ感染の輪が拡大していた当時背景踏まえて「彼らの後押しスターダム上った他のアーティスト達が彼らとの距離を取ろうとするなかで、マドンナだけがゲイファン達に(希望の)光を当てるべく舞い戻りまばゆい輝き浴びせた存在だった」とコメントしている。"Madonna As Postmodern Myth: How One Star's Self-Construction Rewrites Sex, Gender"の著者Georges-Claude Guilbertは、ゲイ・アイコンとしてのマドンナへの賛辞は、ジュディ・ガーランドのものと等しく共通点も多いと指摘している。ゲイ・アイコンについて「通例女性のゲイ・アイコンは傷つき易いか自殺遂げてしまったスターか、マドンナのように何者にも屈しない強いアイドルいずれかに属している」とGuilbertは指摘している.。"Madonna: An Intimate Biography"によると、ポップスターは彼らのもっとも重要なファン層ゲイ男性であることを知っていて、彼女達は「"歴史に残るゲイ達に影響を与えた人物100人"に名が将来載るようなゲイ権利擁護者として扱われるようにゲイ向けマガジンアピールしている」と述べている.。マドンナ自身バイセクシャル性や女性との親密な関係でも知られ、特にサンドラ・バーンハードとの性的関係の噂は、メディア憶測呼んでいる。 もう一人歌手スーパースターシンディ・ローパーがいる。シンディマドンナウーマンリブ先駆者達である。1983年発売されシンディデビューアルバムShe's So Unusual」は、彼女の代表曲ともなる"ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン"などが持つゲイフレンドリー、レズビアンフレンドリーな力強さ多くファン獲得したシンディ人々公平に分け隔てなく扱う姿勢60年代自分育ったことが原因で、「世界視点変えよう」という60年代音楽賜物だと述べている。シンディーによると「誹謗暴力立ち向かうコミュニティ人々ゲイ人々を私が意識するようになっていたから、70年代前半前には、姉がカムアウトしていた」という。ローパーそれ以来ゲイの権利擁護派に立ち、LGBT人々への支援権利平等派への投票呼びかけ行っている。LGBTの権利支援の活動は、シンディ毎年行う「True Colors Tour」のテーマになっているアメリカ人としてお互い知らなくてはいけないし、平等は公平でなくてはなりません。人を愛する事で差別受けた多く人々がいるかもしれません。より大きな声を上げましょう。声を上げ、そして投票をしてくださいアメリカ人として平等に与えられ唯一の方法です。私たち投票する権利あります。 —Cyndi LauperThe Advocate 1980年代中盤には、様々な文化取り上げて新たな風を呼び込んだ告白スタイル番組オプラ・ウィンフリー・ショー」のホストオプラ・ウィンフリーがゲイコミュニティアイコン浮上している。 イエール大学社会学学者Joshua Gamsonは著書"Freaks Talk Back"で、「タブロイド・トークショーのジャンルはウィンフリーとフィル・ドナヒューが裾野広げそれまで性的な規格そぐわない人々とされてきた性的少数者人々衝撃力大きメディア登場させる機会数十年にわたって提供してきた点で20世紀におけるどの活動よりも貢献大きくゲイメインストリーム押し上げ、また社会的受容広げる役割果たしている。 エレン・デジェネレスはウィンフリーに相談をした後にシチュエーション・コメディの「Ellen」のなかで自身レズビアンであることをカムアウトした。 ウィンフリーは1990年代中盤にタブロイド・トーク体裁ジャンルから離れたが、彼女のその面における役割は、リッキー・レイクジェニー・ジョーンズ英語版)ジェリー・スプリンガー(英語版)などが受け継ぎ、ウィンフリーはゲイフレンドリー番組放送続けている。ウィンフリーの番組「Oprah's Big Give」は同性愛公言している司会者ネイト・バーカス(英語版)が登場する初のリアリティ番組として知られている。ウィンフリーの番組GLAADメディア賞幾度となくノミネートされ2007年に賞を受賞している。 ウィンフリーのゲイ・アイコン性は、大衆文化にも広まっている。リアリティ番組一つ「The Benefactor」では、ウィンフリーに多大な影響受けたアフリカ系アメリカ人ゲイ男性主人公で、彼は「ウィンフリーならどうするか?」を自問してら行動をしている。歌手アダム・ランバートもウィンフリーに大きな影響受けたファンであることを自認している。 この年代のアイコンには他にエステル・ゲティMichael Teckman、ビアトリス・アーサージョーン・コリンズアニー・レノックスライザ・ミネリなどがいる。

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1970年代 - 1980年代

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海外ドラマ」の記事における「1970年代 - 1980年代」の解説

1970年代『チャーリーズ・エンジェル』『刑事コロンボ』『大草原の小さな家』、『ルーツ』などが一世を風靡した1980年代には『アーノルド坊やは人気者』、『ナイトライダー』、『特攻野郎Aチーム』、『将軍 SHŌGUN』などが好評博したまた、ビデオグラム一般家庭登場し80年代終盤にはレンタルビデオという手法あらわれ『V』などがビデオレンタルによって人気博した。 この時期五社協定消滅日本放送業界基盤固め他国から番組購入しなくてもよいほどまでに成長した。そのため以前比べて放送時間全体の中での海外ドラマ立ち位置や総放送時間大幅に下がり、地上波限っていえばそのまま右肩下がり推移して現在までに至る。また、当時はビデオレンタル以外の映像媒体存在しないもしくは普及途上であったため、地上波での放送激減したことにより海外ドラマを見ること自体が非常に困難となり、海外ドラマにとっては冬の時代となった

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1970年代-1980年代

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小学区制」の記事における「1970年代-1980年代」の解説

高校進学率その後上昇続け1970年80%を、1974年90%を越えた中等教育大衆化と言われる段階入り高校入学者選抜制度はほどんどの子供に関わる問題となった公教育においては教育機会均等」を実現するべきであるという理念対し公立学校画一性硬直性・教育質の低下などに対す批判として保護者子供選択自己決定重視すべきであるとする「学校選択の自由」の要求要望高まっていく。 1980年代半ば臨時教育審議会臨教審)において「学校選択」が議論となる。1984年学校教育法施行規則改正により、公立高校入学検査の「同一問題同一時期一斉実施」を定めていた項目が削除され受験機会複数化促され従来通学区縛られない学科コース現れた。

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1970年代-1980年代

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バスク祖国と自由」の記事における「1970年代-1980年代」の解説

1975年フランコ死去した後に、フアン・カルロス1世国王によって進められスペイン民主化プロセスにおいて、ETA政治軍事部門恩赦受け入れてバスク左翼政党民主化プロセス加わったが、これに反対する者たちはETA軍事部門集まりスペイン対す武力闘争継続した1979年7月29日には、バラハス空港などを標的とした連続爆破事件起こし空港内だけでも死者5人、負傷者113人の犠牲者出たまた、組織内分裂は後に軍部右派によるクーデター未遂23-F)の原因1つとなった1986年から1987年の間に、政府黙認下で非合法の反ETA組織である反テロリスト解放グループGrupo Antiterrorista de Liberación、GAL)が結成されETAメンバー疑わしい者を誘拐したり、殺したりした。ETA支持者は常に治安部隊CEIAT(Cuerpo de Especial Investigación AntiTerrorismo、対テロ特捜隊)による人権侵害拷問非難していたが、スペイン政府このような不法な活動関与したことは一度証明された事がなかった。

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1970年代~1980年代

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航空会社」の記事における「1970年代~1980年代」の解説

1978年米国大統領ジミー・カーター航空自由化打ち出すと、サウスウエスト航空などの格安航空会社急速に発展した日本においては運輸省指導によるいわゆる45/47体制の下、長らく日本航空全日本空輸 (全日空ANA) 、旧:日本エアシステム (JAS、現在は日本航空合併1988年までは東亜国内航空(TDA)) の3社体制であり、日本航空国際線全般国内幹線全日空国内線全般国際チャーター便東亜国内航空国内幹線ローカル線というすみ分けがあったが、1986年にこの枠組み崩れて全日空国際線定期便に、東亜国内航空国際線への進出が可能となり、全日空同年から国際線定期便進出した東亜国内航空国際線定期便就航させた1988年日本エアシステム社名変更したその後全日空国際線含めて日本航空とほぼ並ぶ航空会社成長したが、日本エアシステムその後経営不振2002年日本航空への経営統合へ至った

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1970年代~1980年代

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ソニック・ドライブイン」の記事における「1970年代~1980年代」の解説

ソニック店舗1972年165軒に増えた1973年から1978年にかけて、800店以上の新し店舗開店し1978年にはドライブインの数は1,000になった1970年代には一時期2年間、毎日1軒以上の新しソニック・ドライブイン開店していたほどの急激な拡大進めていた。しかし、1973年オイルショックによるインフレ率の上昇とガソリン価格の高騰は、ソニックドライブイン事業圧迫した。これに加え有能なマネージャー不足していたことから、1970年代半ばになると、多くレストラン倒産することになった500ドル予算広告キャンペーン行ったが、1980年には30ドル近い純損失計上した1981年までには300店舗閉店することになった1980年代は、取締役のほとんどが退社しケンタッキーフライドチキンセンチュリー21活躍したC・スティーブン・リンがソニック率いることになったリンは、1960年代の姿のまま営業続けていたレストラン改造しフランチャイズ統一図った1986年には、約1,000ドルレバレッジド・バイアウト実施しソニック非公開化した。リンは、チェーン全体協力体制強化し1987年には再び1,000店舗目を達成した

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1970年代~1980年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:41 UTC 版)

ミュージカル映画」の記事における「1970年代~1980年代」の解説

1960年代終り頃には、肥大化したミュージカル映画超大作商業的失敗相次ぐようになり一気退潮台頭してきたアメリカン・ニューシネマSFX映画娯楽映画主流を譲ることになり、以後30年近くわたって主流から外れたままの存在となる。特に題材人材発掘場であるブロードウェイ低調大きく影響し俳優監督その他スタッフに人を得られなくなり質的に優れた作品散発的に作られるのみとなったそうしたメインストリーム退潮一方エルヴィス・プレスリービートルズなど特定の人気ミュージシャンフィーチャーしたジュークボックス・ミュージカル呼ばれる小規模なミュージカル映画1950年代半ばから作られ始めサントラとの相乗効果ヒット挙げるなどしていた。この路線が'7080年代になって特定歌手こだわらず若者向けキャッチーな曲をサントラ満載しポップス市場強く結びついた映画作る動きとなった殊更にアメリカン・グラフィティ』『サタデー・ナイト・フィーバー』らの大ヒット手本とするもので、批評家らに高く評価される事はなかったものの、その後ミュージック・ビデオ時代の礎ともなり、また『ロッキー4』などミュージカル以外の映画造り方にも影響与えた

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1970年代、1980年代

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丸刈り校則」の記事における「1970年代、1980年代」の解説

1974年昭和49年)、日本弁護士連合会は、埼玉県大井町立大中学校(現・ふじみ野市立大中学校)の丸刈り指導について人権侵害認定し大井中学校校長勧告出した1970年代末中学校学校内暴力はびこり教師相手格闘する中学生続出した授業妨害横行してきたので、丸刈り校則採用して事態乗り切ろうとする中学校出てきた。 1984年昭和59年)に、「学校解放新聞」が立ち上げられ、反管理教育運動がさかんとなり、丸刈り校則問題テレビ新聞大きく取り上げられるうになる1980年代中頃数字で、日本全国中学校33%で丸刈り校則実施された。 1985年昭和60年11月13日熊本地方裁判所玉東町立玉東中学校丸刈り校則無効確認不利益処分禁止そして損害賠償求めた訴え棄却した。ただし、丸刈り校則合理性には疑問余地があるとした。また、丸刈り指導やり方について「直接説得」や不利益処分がないことを確認した上、全体として違法とはいえない」としている。 詳細は「熊本丸刈り訴訟」を参照 1987年昭和62年4月愛知教育大学地球環境科学領域教授森山昭雄三男岡崎市立葵中学校入学同生徒は入学時から長髪登校続けた10月末、関西6府県において、全87市の内55市で市内全ての公立中学校長髪可となる。87市の内18市で市内全ての公立中学校丸刈り強制で、残る14市では長髪丸刈り強制どちらも見られたが、市内で1校のみ強制というケースいくつかあった。京都府丸刈り強制が1校のみと非常に少ないに対して兵庫県では全体3分の2近く丸刈り強制であり、関西地区全市一律丸刈り強制のあった18市の内10市を占めていた。 1988年昭和63年3月清水市第二中学校(現・静岡市立清水第二中学校)は、校則合わない髪型をした男女4名の生徒写真卒業アルバムから外し花壇の花の写真差し替えた。この事件新聞各紙報じられ同年3月31日には参議院法務委員会質疑が行われるに至った4月25日、この事件きっかけとなり、文部省初等中等教育局長は都道府県教育委員会対し校則見直し指示管理教育雪どけが始まる。 1989年平成元年3月前述森山昭雄が『丸刈り校則 たった一人の反乱』を刊行岡崎市では1991年9月岡崎市立南中学校において頭髪自由化初め導入された。

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1970年代・1980年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:47 UTC 版)

カネスエ」の記事における「1970年代・1980年代」の解説

1974年4月1973年から1974年まで三和期限付き入社した牛田彰(1949年 - )がカネスエ入社した同年仕入れ合理化品揃え統一配送コスト低減のため流通センター総工費3億6,000万円本社機構建設し、これと同時に日本NCR製の大型コンピュータ導入した1975年6月郊外型ショッピングセンターユニー一宮店」が開店その影響を受け61円か59億円と会社設立以来初め売り上げ前年比減少した本社機構流通センター同時に建設したが、売上高減少にともない借入総額が9億8,000万円達し、「カネスエ危ないらしい」とささやかれた。 当時店員服装下駄ポロシャツ、腰に“カネ岩部商店”と白く染め抜いた前掛けであったが、一新し胸当てのある紺と白のストラップ柄のエプロン紙製の白いキャップワイシャツネクタイ、そして革靴改めた1977年売上高65億円で、1978年71億5,000万円1979年80億円、1982年には売上高105億円に達した1975年共同仕入れによる低価格化を目指し東海セルコ」を設立しその後シジシージャパン」へ加盟した1976年売上高66億円。同年7月社名を「株式会社カネスエ岩部商店」から「株式会社カネスエ」へ改称し、それと同時に本社所在地現在の一宮市下川田町移転した1977年牛田彰が最高責任者となり、同年、コーポレートコピーを「ベストクォリティー ベターライフ」と制定しメバチマグロ販売多種多様なスパイス専用売り場設置輸入食品充実開始した1981年フランス語で「燭台」を意味するインストアベーカリー「ランヴァドール」が発足した設備に3,000万円投資し利益率高かったが、稲沢店、八幡店、開明店の売り上げ悪く1986年自主開発製造をやめてテナント方式となった。 コーポレートコピー制定から5年後1982年に、社会に対して何を提供するかという問いかけからコーポレートアイデンティティCI)を導入した。コーポレートコピーを「おいしいもの、いいものだけを」とし、ロゴマーク楕円斜めに切った形をとった。この楕円躍動感を、切り口新鮮さ個性表している。コーポレートカラーの■ ウルトラマリン濃青色)は若さ表し、■ ワインレッドは高い品質よりよい商品イメージしている 。このCI導入にともない看板等の改変1億近く要した

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