1970年代 - 1980年代中頃: ゲイディスコ
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「新宿二丁目」の記事における「1970年代 - 1980年代中頃: ゲイディスコ」の解説
1966年にはクラブ「NEW SAZAE」は既に開店しているが、当初からディスコスペースがあったのかは未検証である。同店には後にゲイ・ディスコのミュージシャンや、「クイーン」のフレディ・マーキュリーも来店した。また、70年代後半にはドナ・サマー、ヴィレッジ・ピープル、シルベスター、グロリア・ゲイナーらが、ゲイの間で人気だった。 1976年、新宿五丁目の靖国通り沿いの瀟洒な白いビル、Qフラットに美輪明宏が「クラブ巴里」を出店(厳密にはゲイバーではない)、同年5月には同じビルに薔薇族(後述)編集長による「談話室 祭」が開店した。 このQフラットビル地下には「ブラックボックス」という当時としては最も進んだ異色のゲイディスコがあり、ゲイや外国人モデル、パンク風スタイルの若者らが集まった。通常のディスコと異なり入場料は男性のほうが安かった。この頃「ツバキハウス」(伊勢丹裏,ノンケ中心)も人気で、常連は2つの店を往き来した。また二丁目には「MAKO」や「ブギーボーイ」、雑誌などでよく取り上げられていた「フルハウス」もあった。「MAKO」(現BYGSビル東向かい)は1970年代後半頃にできた小さいビルの3階にあった店で、入って左がレジとカウンター右がフロアーで、その境は高さの異なる円柱で仕切られ、奥にソファーがありフロアの壁面には鏡が貼られていた。若いゲイがこれほど多く集まった店は当時はなく、満員電車並に混み合い店内に入れない客は階段や路上に溢れだした。また世界的ゲイマップマガジン「スパルタクス」に先に触れた「SHIRE」、「リージェント」(現東京三協信用金庫)などと共に載っていたこともあり、外国人客も多かった。「MAKO」は1980年に隣のビルに移って「MAKO2」となり、元の場所はゲイバーになったが、移転先の「MAKO2」は盛況だったものの1985年5月、突然閉店した。二丁目のゲイディスコの運命は、皮肉なことに異性愛女性客が増えると客のメインとなるゲイの男性客が離れ、必ず潰れていった。 その頃の新宿二丁目のゲイディスコを知る手がかりとして、比留間久夫が1984年頃に書き始めた小説「YES・YES・YES〜夜の街をさまよう少年たちの甘く、残酷な、愛の冒険〜」には、「文化祭の模擬店のようなチャチな照明と安っぽい装飾でこしらえられた店で…平日の夜中だというのにたくさんの若い男の子がいた…ここは発展場というところなんだろう」と記されている。 また1985年に売専バー“K”で働いていたストレートの男性は「二丁目の“S”という老舗ゲイディスコは…調度品といえば天井に小さいミラーボールがついているくらいなのだが、何といってもそこにいる人が凄かった。インディアンみたいな小太りのおっさんが踊り狂ってるわ、トシちゃんみたいな美少年が踊り狂ってるわ、キリストみたいな外人がボーっとしてるわ、ミック・ジャガーに似た歯の抜けた店員らしき男がハイキックバリバリで踊り狂ってるわ、背の高いマッチョの店員が踊り狂ってるわ、外人のモデルっぽい男女がチチクリ合ってるわ、サラリーマンみたいのが寝てるわ、僕は酔っ払ってビックリしてるわ、で正しくタイやヒラメがヒラヒラしているような感じだった。ちょっとカッコよくいうと“S”は混沌としていた」といっている。
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