欧米での歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 19:03 UTC 版)
ニューヨークのゲイシーンから 生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」が本格的な発展を遂げたのは1960年代以降のアメリカのニューヨークのゲイ・シーンであり、客層はゲイの黒人(アフリカ系アメリカ人)などマイノリティが主流であった。こうしたディスコはゲイ男性のための発展場としての役割とアンダーグランドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っており、こうしたディスコとして有名なものにパラダイス・ガレージ、セイント、フラミンゴ、ギャラリーなどがあった。いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリーのディスコであり、ニューヨークでも特に進んだファッショナブルで流行に敏感なゲイの男性たちが集まっていて、流行の発信地でもあった。パラダイス・ガレージのメインDJとして活動していたのが、ラリー・レヴァンである。因みに1984年、パラダイス・ガレージと人気を二分したセイントでは、ゲイDJ・中村直が日本人として初めてレジデントとして迎えられた。 DJスタイルの確立 現在のクラブ音楽の基本的パターンである、DJがヒット曲ではなく自らの個性を発揮した選曲で独特の世界を作り上げて客を躍らせるというスタイル、二枚のレコードをミックスして継ぎ目なくレコードを演奏するスタイル、既にある曲をリミックスしてダンス向きにする手法、家で聞くためではなくクラブで掛けるためだけに製造される12インチのシングル盤といった形式などはこの時期に前記のラリー・レヴァンやエンジニアのウォルター・ギボンズ達によって確立された。やがてラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアンなどの有名ディスコDJ達はレコードを発掘するにとどまらず、自らプロデューサーとして、ダンスのためだけに特化したレコードを多数リリースしたり、リミックスを手がけるようになる。ダンスフロアとダンサーの心理やツボを知り尽くした彼らは、それまでの音楽プロデューサーが思いもよらなかったような様々なテクニックやスタイルを導入した。 世界的なディスコブームへ やがてゲイが社会的に認知されると社会の多方面に堂々と進出すると同時に、このディスコ音楽も表舞台へと登場し、ゲイ以外の一般のリスナーにも聞かれるようになる。1970年代にはアメリカのテレビ番組であるソウル・トレイン(Soul Train)が人気となった。また77年の映画「サタデイ・ナイト・フィーバー」の影響で、ディスコ・ブームが世界的に巻き起こり、大都市のみならず全米でディスコティックが増加した。ディスコには黒人やゲイをはじめとして、一般人が押し寄せるようになり、75年から79年ごろにはヒットチャートの上位を独占するようになる。当時人気のあったゲイ・ディスコ・ミュージシャンには、シルヴェスターやヴィレッジ・ピープルがいた。また、ドナ・サマー、ダイアナ・ロス、グロリア・ゲイナーらは、ゲイを中心とした聴衆から「ディスコ・クイーン」の地位にまつりあげられた。しかし粗製濫造された質の低いレコードや流行の一過、また中核を担ったゲイ音楽シーンがエイズにより壊滅的な被害を受けたことにより、ディスコ・クラブという形態は次第に姿を消す。ディスコブームの終焉の後には、ハウスを中心としたクラブ音楽へと変わっていった。 因みにこの頃を知る中村直は、「1980年代中頃から後半のニューヨークのゲイ・クラブシーンは、どんよりと暗かった。エイズが猛威を振るい、人々はバタバタと倒れ、先週フロアーで会ったダンス・メイトが、今週は入院して生死の間を彷徨っているとか、入退院を繰り返していた誰それが、とうとう亡くなったとか、エイズ渦に対する恐れと悲しみ、そして或る意味で諦めに満ちていた」と語っている。 日本にも流入 日本では、アメリカのゲイ・シーンの影響をどれだけ受けていたかは別として、1970年代頃からゲイディスコがオープンし始める。それより前の1960年代もダンススペースを設けたゲイバーがあった可能性はあるが、検証されていない。日本のゲイにとってもゲイディスコは踊りを楽しむだけではなく、出会いや発展の場でもあった。以下では日本におけるゲイディスコブームについて記す。
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欧米での歴史
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「シンガーソングライター」の記事における「欧米での歴史」の解説
1960年代後半から1970年代前半にかけてのロック界やソウルでは社会的なメッセージ性の強いヒット曲が多く生まれた。1970年にジェームズ・テイラーはアルバム『スウィート・ベイビー・ジェームス』を発表したが、このアルバムはシンガーソングライターによるオリジナルバージョンがヒットしたことで当時としては珍しい例であり注目を浴びた。また、『ファイアー・アンド・レイン』はジェームズ・テイラーのごくごく私的な体験を告白した歌詞の曲だったが、『スウィート・ベイビー・ジェームス』に収録されたのちシングルカットされ、1970年秋に大ヒットとなりこれがシンガーソングライターブームの幕開けと言われている。 また、フォークブーム期であった1960年代末にはカナダのシンガーソングライターであるゴードン・ライトフット、レナード・コーエン、イアン&シルビア、トム・ラッシュらも米国に進出した。
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欧米での歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 23:21 UTC 版)
1990年代、故人に訃報を伝える「お悔み欄、死亡広告」などを、インターネットサイトで掲示するものからスタートした。当初は有名人や社葬などの際に、故人を偲ぶことを目的とした。新聞や葬儀場などが、死亡記事をウェブサイトで投稿し始め、オンライン墓地は、最初のものが1995年にWorld Wide Cemetery(cemetery.org)として立ち上げられた。 1997年には、ソーシャルワーク学の教授であるCarla Sofkaが、論文で 「Social support "Internetworks," caskets for sale, and more: Thanatology and the information superhighway」を発表し、この新しい形式の故人への追悼方法の増加を認めた。後にネット上での追悼は、広範囲にわたる悲嘆を引き起こしたイベントへの集団的な追悼碑的な対応が可能になった。 2000年代には、ソーシャルメディアと簡素化されたWebサイト作成ソフトウェアにより、一般人への使用が急速に増加した。 そして、最近では、オンラインメモリアル(online memorial) として、各故人ごとにウェブサイトを立ち上げた形式が増えている。これらのオンラインメモリアル運営機関は、オンラインの記念碑に悔みを家族や友人などからオンランで伝える双方向「参加型」で使えるメッセージ・写真掲載機能などが充実している。
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