Altair 8800
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/19 05:53 UTC 版)
Altair 8800(アルテア 8800)とは、1974年12月にアメリカのMicro Instrumentation and Telemetry Systems(MITS)が開発・販売した個人用のコンピュータである。一般消費者向けに販売された最初期の個人用コンピュータであり、「世界初のパーソナル・コンピューター」と呼ばれることもある[1]。
発売の経緯
個人用コンピュータの可能性
Altair8800が登場した1970年代半ば、当時のメインフレームやミニコンピュータといったコンピュータはまだ研究所や企業などで一室を占有したり、小型のものでもシステム一式で壁面のラックにそびえ立つような、巨大で高価な代物であり、高価かつ貴重な計算資源を個人が所有・占有すること(1人で1台のコンピュータを扱うこと)は、経済的に困難と考えられていた。
しかし、1970年代初頭に開発され最初期の製品が出回り始めていたマイクロプロセッサは、スペック的にはそれらを大幅に下回るとは言え、機能的には立派に1個のコンピュータであり、やはり同時に発達しつつあったLSIを使って周辺の回路と装置を用意すれば、個人が所有できるコンピュータとなる可能性が見え始めていた。日本で発刊された書籍『マイ・コンピュータ入門』のはしがきには「HITAC 5020 をワンチップにできる、などとシンポジウムで雑談をしたことがあった」という思い出話が書かれている。
マイクロプロセッサを利用したコンピュータキットはAltair8800よりも前に、The Scelbi-8H(1974年 i8008)や Jonathan Titus' Mark 8 kit computer(1974年 i8008)など、既にいくつか販売されていた。
Altair8800の発売
このような状況で個人向けに発売されたコンピューターキットのうちの1つが、Altair8800である。開発元であるMITS社のエド・ロバーツは、「商業モデルに匹敵しうる世界初のミニコンピュータキット」と紹介した。 販売価格は、組み立てキットで397ドル、組立済み498ドルで、発売直後(3月)に組み立てキット439ドル、組立済み621ドルに値上げした。なお、当時のi8080の単体価格は350ドルであった。
発売されると、BIT誌上で「personal computer」と絶賛された。破格の安さと拡張性で、最初の2〜3週間で4,000台を超える注文が殺到した。しかし、後述する生産体制等の問題により、1975年に実際に販売できたのは2,000台程度と言われている。
また、その後一般向けに発売されたオペレーティングシステムであるCP/Mとともに、中古市場に出回りつつあったリースバックのテレタイプ端末ASR-33やビデオターミナルVT-100およびそれらの互換機などと、他の拡張機器類とあわせて接続することで、フルキーボードで入力しCRT上で結果を得るという、現在のコンソール環境とほぼ同等の環境で使うこともできるようになった。
Altair8800は、一般に知られている組み立てキットだけではなく、完成品もカタログのラインナップには存在していた。しかしMITSでは市場の要求に応えられるだけの完成品を量産製造する能力がなく(また当初は、組み立て済み製品のほとんどに何らかの不良があったとされる)、納期の遅れは購入者とのトラブルを生み出し、訴訟問題にまで発展した(例えば、送金時には1000ドルの製品が、納期の遅れによってようやく送られてきた時には、市価における実勢価格が600ドルにまで下がっている等したため、差額返却を要求された)。
実際の販売数ではキットの方がはるかに多く、電子工作の経験や素養のないユーザーが組み立てキットを購入してしまうことで完成させられない人間が続出し、その対処や苦情への対応も大きな負担になっていた。
MITSが経営に失敗した理由は、この生産効率の悪さとクレームの対処のまずさにあったと言われている。また、キット販売が主流のAltairを、組み立てなどの煩雑な作業は飛ばして実務に応用したいユーザーのニーズにもMITSは満足に応えることができず、これらの事情から完成した(消費者向け製品としてはより洗練された)互換機や拡張機器類を販売するサードパーティーが活動する余地を見出し、Altairを中核とした互換機市場に発展してゆくことになる。
日本での紹介
日本ではAltair8800の発売後まもなく、『ポピュラーエレクトロニクス』誌1975年1月号に部品リストや回路図が掲載され、コンピュータを組み立てることを同誌が読者に提案する企画として扱われた。しかし実際にはポピュラーエレクトロニクス誌宛に送られた完動品のAltair8800は輸送途中で行方不明となり、ポピュラーエレクトロニクスの表紙には代わりに急遽作成された中身のない筐体にランプをつけただけのダミーの写真が掲載された。
Altair8800の機能
ミニコンピュータという自称ではあるが、当時の一般的なミニコンピュータとは違い、マイクロプロセッサであるIntel 8080をCPUに使っている。しかし、トグルスイッチと、ビットの状態を表示するためのパイロットランプが並んだパネル、というスタイルは、当時のミニコンピュータの中心的ユニット(CPU)のパネルそのものであり、本格的な応用にはそれなりに周辺機器の増設が必要という点もある意味相似している。
しかし当初から、4KB のメモリも拡張ボードとして用意されており、それらを拡張スロットに増設することを前提に、マイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツとポール・アレンが移植した BASICインタプリタが Altair BASIC としてリリースされ、(いわゆる「ストリートBASIC」ではあったが)BASICによるプログラミングも可能となった。Altair BASIC は紙テープ($350)で供給され、売れ残ったメモリボードと組み合わせて廉価販売する手法も取られた。
名前の由来
Altairという名前は、MITSの社長Ed Robertの友人Les Solomon(当時『ポピュラーエレクトロニクス』誌のテクニカルディレクターだった)の、当時12歳の娘Laurenの発案に由来する。彼女は『スタートレック』のファンであり、新製品の名前を何にしようかとEdがLes家に相談しにきた時に、たまたまその夜放送予定だった[2]『スタートレック』のエピソードにおいてエンタープライズ号が赴く先から取った名前を提案したのである。その目的地はアルタイル星系の第6惑星(Altair VI、日本語吹き替えではアルター6号)であった。エピソードは(作品の放送時期と、アルタイル星系が出てくる話が他に無いことから)スタートレックのオリジナルシリーズ(いわゆるTOS、日本では『宇宙大作戦』として知られる)のシリーズ2・エピソード1「バルカン星人の秘密」である。
Altairの系譜
Altairのラインナップには、CPUにi8080を使用したAltair8800以外に、モトローラのMC6800を採用したAltair680がある。
Altair8800は更に初期型 (Altair8800)、中期型 (Altair8800a) と後期型 (Altair8800b) が存在し、さらにパネルスイッチによるブートストラップを必要とはせず、電源を入れるだけでフロッピーディスクから起動する、TURN-Key(Altair8800bT)という派生モデルも存在した。TURN-Keyモデルは、CP/M上のデータベースソフトなどのビジネスアプリを走らせて事務処理をしたい非電子技術者系ユーザーのニーズに応えるための製品であり、フロントパネルからメモリ操作用のトグルスイッチなどは省かれている。
なお、ここで言うブートストラップとは、コンピュータの起動時にOS等のソフトウェアをブートさせる最初のプログラムを読み込み実行させる仕組みであり、現在のAT互換機で例えるならBIOSの機能の一部に相当する。Altairは、標準ではBIOSやIPLなどもROMとして搭載していなかったため、最小構成では起動やリセットのたびに手作業で数十バイトのプログラムを二進数で入力する「儀式」が必要であった。
アーキテクチャ
標準構成(最小構成)では、CPUはインテルの8080(2MHz)、メモリはわずか256バイトであった。また、拡張バスとしてAltair bus(S-100バス)を搭載していた。
フロントのパネルには、アドレスおよびメモリ表示用のLEDと、アドレスバス・データバスの各ビット操作用のトグルスイッチなどを装備していた。
最小構成では他に手段が無いので、プログラムの書込みは、以下のような手順で行う。
- パネルのHALTスイッチでHALTの信号線をアクティブにし、CPUを停止させる。
- パネルのスイッチ群でアドレスとデータを設定し、書き込みスイッチで当該アドレスのメモリに設定したデータを書き込む。
- 2の作業を繰り返して必要なコードを書き込んだのち、HALTを解放する。
- 0番地からプログラムが読まれ実行される。
最小構成で他に手段が無い場合の、ブート手順として昔から行われてきた手法と同様である。
S-100バス
S-100バスとは、Altairに搭載された拡張バス規格の名称であり、後に互換機市場において名付けられた。StandardのS、バスのピン数(100ピン構成)が名称の由来である。
MITSではAltairの拡張バスをAltair busと呼称しており、当初から機能の拡張が主目的であった訳ではなく、Altairの機能を複数のカードに分散して開発する目的で仕様規定された。
Altair busは、当初はi8080 CPUの動作タイミングに完全に依存した2MHzの非同期バスとして開発され、後にAltair680を発表する際に、M6800バスのような同期バスCPUにも流用出来るように改版された。8ビットバスであり、8ビット幅のデータバスと16ビット幅のアドレスバスを持つ。
当時は、最大で20数本ものスロットに5Vおよび12Vの電圧を安定して供給可能、かつ数アンペアもの電力消費に追従可能で安価なレギュレータは存在せず、バス上では電源として8Vおよび18Vを供給し、各カード上のローカルレギュレータで12Vと5Vを作り出していた。筐体容積の1/3近い体積を占める巨大なトランスとコンデンサを電源として搭載していることも、Altairおよびその互換機の特徴といえる。
S-100バスの名は、正しくはこのAltair busの互換バスとして、サードパーティが互換製品を出す際に名乗ったものである。互換機ビジネスは現在ではサードパーティビジネスとして成立しているが、当時は日本語で「コバンザメ商法」とも呼ばれ、MITSではS-100バスはAltairBUSではないとして、これらの互換メーカーを非難した。
より高品質な互換製品が市場に流通するようになってもMITSは自社製品の改良を行えず、経営危機に陥ったMITSは自社製品の正当性と保護を主張し、(現在で言うところの)「知的所有権の侵害」に当たるとして、販売店にIMSAIや他社の互換製品を排除させようとした。しかしこれにはユーザーや販売店側の反発があり、皮肉にもMITS自身がこの市場から放逐される事になってしまう。
デファクトスタンダード(事実上の標準)となったS-100バスは、のちに正式にIEEE-696として標準化されることにより、MITSやAltair消滅後もS-100バス互換機および互換市場は存続してゆく。AT互換機における、IBMによる標準規格PC(IBM-PC/AT)バスに対する、互換機メーカー主導による標準化バス名称ISAバスと同様の構図であった。
1970年代の「互換機市場」
Altairの最小機能モデルは現在のCPU評価キット程度の機能しか持たず、それ単体では具体的な業務に従事させることは困難であった。しかしながらAltairBUS(S-100バス)で各種基板を接続する方式をとっていたため、拡張ボードで機能をグレードアップすることが可能であった。
このような用途にパーツを供給したり、互換機を発売するメーカーも現れ、「S-100バス互換機」市場が形成された。
ユーザーにとって、Altairは具体的にはS-100バスによって自在な拡張を可能とする「自作コンピュータ」の中核コンポーネントとして存在していた。これは、現在のPC-AT互換機に例えるなら、本体(筐体)とマザーボード、CPUのみの状態に近い。
ユーザーはこれにメモリやシリアルカード(音響カプラやプリンタ以外にも、シリアルコンソールを接続して対話的に操作する)の他、ST-506等の各種インタフェースを増設、フロッピーディスクドライブやハードディスクドライブ等を接続し、CP/MやBASICなどを利用して実務や開発などを行っていた。
また、AltairのCPUやメモリも単にS-100バス上のカードとして実装されているため、CPUをより高速・高機能なZ80に交換したり、メモリを64KBまでフル増設する等して、自在に拡張することができた。
Altair8800の互換機
上述のように、Altair8800には多数の互換機(クローン)が存在し、S-100バス互換機として、現在のPC/AT互換機のような互換機市場を形成していた。これらは単純にAltairをコピーした粗悪なものから、基板や回路の品質、筐体や電源の品質などでAltairを上回る高級品や、性能や機能を拡張したもの、各種の拡張カード類をあらかじめ内蔵(増設)してスイッチONでCP/Mが起動するものなど、コアとなるAltairの至らない部分を補完・拡張する形で存在していた。
Cromemco SystemI/II
米クロメンコ社が1976年に販売したS-100バス互換機で、S-100バスマシンとしては満艦飾仕様とも言える「全部入り」のハイエンド仕様として、当時は高級品の一角を占めていた。
4MHzのZ80A CPUと64KBのメインRAMを搭載し、2基の5インチ2Dフロッピーディスクドライブを搭載したものがSystem I、FDD1基に5メガバイトの5インチHDDを搭載したものがSystem IIである。
8インチFDDを2基搭載し、CP/Mのマルチユーザー環境MP/Mシステムに対応した、Cromemco System IIIも存在する。
IMSAI 8080
米IMSアソシエイツ(IMSAI)の組立てキットで完成品もあったコンピュータで、Altairの完全互換機。CPUはAltairと同じ2MHz駆動の8080でありながら、基板の設計や筐体の組み付け、デザインはより洗練され、電源の容量にも余裕があり、フロントパネルのスイッチ類にもAltairより視認しやすく信頼性の高いものが使われている。
また、内部のS-100バススロットも最大で22基搭載しており、メモリカード(当時のメモリは高価であり、ホビイストや学生などの経済的に余裕のない個人ユーザーは、8KBや16KB単位で増設することが多かった)やSIO(シリアルポート)、PIO(パラレルポート)、FDD、CMT(テープ)、ビデオカード等の増設にも耐えたこと、またこれらのペリフェラル類が最初からオプションとして揃っていることなど、CP/M環境を組み立てるコアとしてはAltairよりも評価が高く、Altairの欠点を潰した「Altairの本来あるべき姿」といった評価もあった。
North Star Horizon
米ノーススター・コンピューターズ社の2FDD内蔵のフレームタイプコンピュータである。なお、当時の取り扱い代理店であった工人舎は、後にソーテックと社名変更しPC事業を続けた(現在はオンキヨーに吸収合併)。
Sol-20
米プロセッサ・テクノロジー製で、S-100バス互換機でありながらキーボード一体型の製品。スロット数は4本で横置き。最初期のS-100カードに比べて集積率が上がったコンボカードや、メモリ容量が格段に増えたメモリカード等が市場に登場したことにより、スロット数が少なくても実用に足る製品構成が可能になったために登場した製品である。本来Sol-20自身がAltairの互換製品であるが、このSol-20用のZ80プロセッサアップグレードキットZOLがさらにサードパーティによって発売されていた。日本ではムーンベース(南新宿に存在したマイコン専門店)から745,000円で販売された。
Legacy8080
2014年に技術少年出版[3]から発売された。CP/M互換OSを搭載している[4]。スイッチやLEDは特注品で当時は無かったUSBやMIDIを標準装備している[5]。
その他
- マイクロソフトのサクセスストーリーは、元々ビル・ゲイツとポール・アレンがこのAltairのメモリを4KBに拡張してBASICインタプリタを移植するところから始まっている(BASICの移植自体はマイクロソフトの初仕事ではない)。ポール・アレンは、Altairの開発・販売元であるMITSのソフトウェア部長となるとほぼ同時に、ビル・ゲイツと共にマイクロソフトを設立している。
- ハリウッド映画『ウォー・ゲーム』で主人公が自宅で扱っていたコンピュータは、Altair8800の互換機IMSAI8080であり、ノベライズ版ではAltair8800を使用している。
脚注
- ^ “世界初のパーソナルコンピュータ「Altair 8800」の開発者E・ロバーツ氏、死去” (2010年4月2日). 2017年9月13日閲覧。
- ^ アメリカのテレビ放送では、新作と再放送のエピソードをいくつか混ぜて放送したりする。日本のように「再放送」として全部を元の順番通り放送するようなことはあまりなかった。
- ^ 技術少年出版
- ^ “Altair 互換機で学ぶプログラミングの原点”. 日経ソフトウエア (日経BP). (2014-10).
- ^ “伝説の編集者が蘇らせる古のパソコンを見た”. PC Watch. (2014年4月3日)
Altair 8800
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「計算機の歴史 (1960年代以降)」の記事における「Altair 8800」の解説
詳細は「Altair 8800」を参照 シングルチップのマイクロプロセッサの開発は、安価で使いやすく真にパーソナルなコンピュータの普及にとって大きな役割を果たした。1975年1月号のポピュラーエレクトロニクス誌で Altair 8800 が紹介され、新たなコンピュータの市場が生まれた。これに似たような性能の IMSAI 8080 が続いた。AltairもIMSAIもミニコンピュータをスケールダウンしたものであり、単体ではシステムとして不完全である。キーボードやテレタイプ端末を接続する必要があり、本体に比べると相対的に高価だった。またどちらも本体前面パネルにスイッチとライトが並んでいて、二進法で操作者とやりとりすることができる。ブートストラップ・ローダーをスイッチ操作で(二進数で)入力すると、間違いがなければ紙テープリーダーから紙テープに格納されたBASICインタプリタをロードする。前面パネルからのプログラム入力は8個のスイッチで1バイトの値を指定して、ロードボタンを押すことでメモリに入力するということを繰り返す。一般に100バイトぶん以上それを繰り返す必要があった。インタプリタをロードすると、やっとBASICプログラムを実行できるようになる。 Altair 8800 は Intel 8080 マイクロプロセッサを使った世界で初めて商業的成功を収めたマイコンキットであり、世界初の量産されたマイコンキットである。1万台が出荷された。また、これに触発されたポール・アレンとビル・ゲイツがBASICインタプリタ「Altair BASIC」を開発し、後にマイクロソフトを創業することになった。 Altair 8800 はマイクロコンピュータの市場を生み出した。Altair 8800のバス規格「S-100バス」はデファクトスタンダードとなり、多くの小企業がS-100コンピュータを販売した。さらにインテルやザイログが後継マイクロプロセッサ(Z80や8085)を開発することになる。デジタルリサーチを創業したゲイリー・キルドールはそのためのオペレーティングシステム CP/M-80 を開発。CP/M-80は人気となり、多くのハードウェアベンダーが採用し、その上で動作する WordStar や dBase II といった様々なソフトウェア製品も登場した。 1970年代中ごろのホビーストたちは自前のシステムを設計し、時には集まって開発を行った。そんな中でホームブリュー・コンピュータ・クラブが生まれ、ホビーストたちの情報交換の場となった。多くのホビーストは公開された設計に基づいてコンピュータを自作した。例えば、1980年代前半の例として Galaksija がある。
※この「Altair 8800」の解説は、「計算機の歴史 (1960年代以降)」の解説の一部です。
「Altair 8800」を含む「計算機の歴史 (1960年代以降)」の記事については、「計算機の歴史 (1960年代以降)」の概要を参照ください。
Altair 8800
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「エド・ロバーツ」の記事における「Altair 8800」の解説
詳細は「Altair 8800」を参照 ロバーツは、低価格のコンピュータでキット市場に復帰することを決めた。顧客のターゲットとして、「多少の組み立てが必要」であることが望ましいと考えた。1974年4月、インテルがマイクロプロセッサIntel 8080を発売した。ロバーツは、自社のコンピュータキットには8080は十分だと感じていたが、8080は小ロットでは1個360ドルで販売されていた。ロバーツは、コンピュータキットの価格を400ドル以下にしなければならないと考えていた。この価格を実現するために、ロバーツはインテル社に8080を1,000個発注し、単価を75ドルまで下げさせた。会社の従業員を20人にまで減らし、銀行からの65,000ドルの融資により、新しいコンピュータの設計と初期生産の資金を確保した。ロバーツは、200台程度売れればいいと考えていたが、銀行には800台売れると言っていた。 『ポピュラーエレクトロニクス』編集長のアート・サルスバーグは、雑誌で紹介するコンピュータの製作プロジェクトを探していた。同誌の技術編集者であるレス・ソロモンは、MITS社がIntel 8080を使用したコンピュータキットを製作していることを知っていた。ロバーツはソロモンに、1975年1月号のプレス締め切りに間に合うように、11月までに製品を完成させると約束した。最初の試作品は10月に完成し、表紙写真の撮影のためにニューヨークのポピュラーエレクトロニクス社に送られたが、輸送中に紛失してしまった。ソロモンはすでにこの機械の写真を何枚ももらっていたので、記事はそれを元にして書いた。ロバーツとイェーツは代替機の製作に取り掛かった。雑誌の表紙に掲載されていたコンピュータは、フロントパネルにスイッチとLEDが取り付けられただけの空箱だった。実際に完成したAltair 8800は、雑誌に掲載されていた試作品とは全く異なる回路基板レイアウトを持っていた。 MITS社の製品は、"Model 1440 Calculator"(1440型電卓)や"Model 1600 Digital Voltmeter"(1600型デジタル電圧計)のような命名をされていた。『ポピュラーエレクトロニクス』の編集者は、このコンピュータにより魅力的な名前があれば良いと考えた。MITS社の技術ライターのデビッド・バネル(英語版)は3つほど名前を思いついたが、ロバーツはコンピュータの設計の仕上げに忙しくて、その中から1つを決めることができなかった。 Altairという名前を誰がつけたのかについては、いくつかの説がある。第1回Altair Computer Convention(1976年3月)では、『ポピュラーエレクトロニクス』誌のレス・ソロモンが、12歳の娘ローレンと話している中で命名したと語った。「彼女は『Altair(アルタイル)はどう? 今夜(の『スタートレック』の放送で)エンタープライズ号が行く所なの』と言いました。」『ポピュラー・サイエンス』1976年12月号では、この話をエド・ロバーツと娘の会話として誤って引用している。ロバーツの一人娘ドーンが生まれたのは1983年のことである。このどちらの話も、多くの書籍、雑誌、ウェブサイトに掲載されている。 『ポピュラーエレクトロニクス』誌の編集者のアレクサンダー・ブラワは別の説を唱えている。編集長は当初"Popular Electronics 8-bit"の頭文字をとって"PE-8"とするつもりだったが、レス・ソロモンはこの名前はつまらないと考え、ソロモン、ブラワ、ジョン・マクベイの3人で「これはstellarな出来事だから、星にちなんだ名前をつけよう」と決めて、マクベイが12番目に明るい恒星であるアルタイルを提案したという。 『ポピュラーエレクトロニクス』1975年1月号が1974年12月中旬に読者に届くと、MITS社には注文が殺到した。電話応対のためだけに人を雇う必要があった。1975年2月、MITS社にはAltair 8800の注文が1,000件も寄せられた。納期は60日とされていたが、実際に出荷されるまでには何ヶ月もかかった。1975年8月までに5,000台以上を出荷した。 Altair 8800の販売価格は、MITS社にとっては損益分岐点だった。利益を上げるためには、追加のメモリボード、I/Oボードなどのオプション品を販売する必要があった。MITS社のニュースレター『Computer Notes』の1975年4月号には、15以上のオプションボードの何ページにも渡る価格表が掲載されていた。オプション品の納期は60日または90日としていたが、ほとんどの製品は生産されることがなく、そのうちにオプション品は価格表から削除された。当初、ロバーツはコンピュータ本体の生産に専念することにしたため、オプション品の納品は1975年10月まで行われなかった。 MITS社の4K DRAMボードには設計と部品の問題がいくつかあった。7月までに、プロセッサ・テクノロジーなどの新興の会社が、信頼性の高い動作が保証された4K SRAMボードを販売するようになった。ロバーツは、『Computer Notes』の1975年10月号で4K DRAMボードの問題を認めた。価格を264ドルから195ドルに値下げし、既存の購入者には50ドルを払い戻した。MITS社は1976年1月に独自の4K SRAMボードをリリースした。 他にも数社がアドインボードの製造を開始し、1975年12月に最初のクローンであるIMSAI 8080が発売された。
※この「Altair 8800」の解説は、「エド・ロバーツ」の解説の一部です。
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