主体思想の変容期
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北朝鮮の自主独立路線と、マルクス・レーニン主義の独自解釈を打ち出した主体思想は、やがて、首領=金日成の唯一絶対の思想としての地位を確立し、これに対する一切の批判を排除することを通じて、金一族の絶対的権力を正当化するイデオロギーとしての色彩を強めていく。そのことは、いずれ訪れる長男・金正日への地位の継承を準備する意味も持っていた。 1972年(主体61年)12月27日の最高人民会議第5期第1回会議でそれまでの朝鮮民主主義人民共和国憲法を全面的に改正した朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法では、主体思想が国家の指導指針とされた。同時に国家主席のポストが新設され、それまで朝鮮労働党の「首領」とされていた金日成に憲法上も最高指導者の地位が付与された。 さらに、1974年には党の唯一思想体系確立の10大原則が成立。主体思想の目指すところを具体化しつつ簡潔にまとめた、社会主義憲法や朝鮮労働党規約を上回る北朝鮮公民の最高規範と位置付けられた。そして、公民に対しては戦前・戦中の大日本帝国の教育勅語にも劣らぬ徹底的な教育が行われた。 詳細は「党の唯一思想体系確立の10大原則#旧条文」および「朝鮮民主主義人民共和国の歴史#1970年代 1972年憲法と金正日の台頭」を参照 「教育ニ関スル勅語#第二次世界大戦中」も参照 1982年の金正日の『チュチェ思想について』によると、国家政策における主体思想の適用の概要は以下である。 人民は、思想や政治的には独立し、経済的には自己供給し、国防では自己依存していなければならない。 政策は大衆の意思と願望を反映し、革命と建設の中で彼らを完全に雇用しなければならない。 革命と建設の手法は、国家の状況に適応されなければならない。 革命と建設の最重要作業は、人民を思想的に共産主義者に形成し、彼らを建設作業に動員する事である。 「主体」の視点では、革命的な党と指導者への絶対的な忠誠心を要求した。北朝鮮では、それらは朝鮮労働党と、最高指揮官たる金日成であった。スターリンが押し進めた個人崇拝を北朝鮮の実情に合わせて進化させたもので、「領袖は党、党は国家」というスローガンとともに朝鮮社会への浸透を推し進めた。そして金日成の死後、金正日指導の下では先軍思想が主体思想と同列に推されたことにより、事実上「領袖は軍、軍は党、党は国家」という軍国主義的な要素を含んだものへと変質する。 「北朝鮮の個人崇拝#背景」および「先軍政治#概要」も参照 北朝鮮の公式な歴史では、「主体」の最初の適用とされるものの1つは千里馬運動とも呼ばれている1956年から1961年の五カ年計画である。この五カ年計画はソビエト連邦と中華人民共和国の両方からの政治的独立を確実にするために、重工業に焦点を当てた北朝鮮の迅速な経済発展を目的としたが、1928年のソビエト連邦の第一次五カ年計画と同様の中央集権的な国家計画の手法を適用し、また毛沢東の第一次五カ年計画や大躍進政策とも部分的には関連があった。 しかし、経済的自立の願望に反して、北朝鮮は他の諸国からの経済援助に依存し続けている。歴史的には、1991年のソビエト連邦の崩壊まではソビエト連邦からの援助に最も依存していた。朝鮮戦争後の1953年から1963年は「兄弟」諸国からの経済援助や資金に頼り、1953年から1976年はさらにソビエト連邦の産業支援に強く依存した。ソ連崩壊により北朝鮮経済は危機に陥り、社会基盤の運営にも失敗し続けたことから、1990年代半ばには大規模な飢饉が発生した。 詳細は「朝鮮民主主義人民共和国の経済史#大飢餓と深刻な経済難」および「苦難の行軍#概要」を参照 その後、中華人民共和国が最大の援助国となり、人道援助に年4億ドルを提供し、北朝鮮の貿易は中国が90.6%も占めている。2005年には北朝鮮は2番目に多い国際食糧援助を受けており、恒常的な食料不足に悩まされている。 詳細は「朝鮮民主主義人民共和国の経済史#混迷続く経済状態」および「朝鮮民主主義人民共和国の国際関係#中華人民共和国」を参照
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