1970年の解消
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詳細は「1970年パキスタン総選挙(英語版)」、「6点運動(英語版)」、および「法的枠組み令 (1970年)(英語版)」を参照 逆の立場からは州は経済発展の恩恵を受けていなかったが、一つの連邦計画は中央政府を強化した。西パキスタンでは4州も州に課されるために不正行為の原因となる一つの連邦の廃止を求めて苦労してもがいていた。 州の強力な委員会は、文民の反抗や街中での暴力行為、戒厳令に対するスローガンの掲揚、警察のような政府機関への攻撃といった手法で中央政府に圧力をかけた。数週間に亘り4州は共に働きヤヒャ政権が設けた際のあらゆる未解決の問題を解決するための「一つの連邦解消委員会」を指導した。最終的に委員会の案は、西パキスタンの「一つの連邦」が解消し全権力がバルチスタン州やカイバル・パクトゥンクワ州、パンジャーブ州、シンド州に移管された1970年7月1日に発効した。ヤヒャ・カーン大統領兼将軍は1970年7月1日に単に「西」を削除し「パキスタン」という語を加えただけの大統領令を発した。 1970年12月に行われた総選挙(英語版)でムジブル・ラフマンを擁する極左のアワミ連盟が議会で絶対的な勝利を収め、162議席の内2議席を除く全議席が東パキスタンに割り振られた。アワミ連盟は東パキスタンへの更なる自治を主張したが、軍事政権はムジブル・ラフマンに政権擁立を認めなかった。 東パキスタンは1971年12月16日にバングラデシュとして独立した。西パキスタンという用語は、不要となった。
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