1970年の新しいミサ典書
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「新しいミサ」の記事における「1970年の新しいミサ典書」の解説
教皇パウロ6世は1969年4月28日の枢機卿会議(sacrum consistorium)で、ミサの新しい式次第(Novus Ordo Missae)について予告した。同年5月2日に、4月3日付けで使徒憲章『ミッサーレ・ロマーヌム』が発表され、長い総則(Institutio generalis)と共に公にされた。 同年9月、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とは「新しいミサの批判的研究」を承認しパウロ6世への手紙にサインした。10月21日、両枢機卿はパウロ6世に新しいミサの批判的研究を提出し、新しいミサの中止を求めて次のような内容の手紙を送った。 「新しい司式は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。あの当時に決定的に定められた典礼様式のカノンは、この[ミサの]神秘の完全性に対して向けられた如何なる異端に対しても越えることのできない防御の壁を作っていたのです。」 「ですから、これ程の痛ましい分裂と、信仰の純粋さと教会の一致に対するますます大きくなる危機(このことは私たちの共通の父である聖下ご自身がお嘆きになったことでもあります)の時に当たって、私たちは本当に心から聖下にひたすらお願い申しあげます。聖下ご自身がかくも高く賞賛され、全カトリック世界がかくも深く愛し崇敬してきた聖ピオ5世のローマ・ミサ典書の実り豊かな完全性に私たちが続けて使用することが出来るようにその可能性を私たちから奪わないで下さい。」 パウロ6世はこの手紙と研究書を受け取ると、これらを教理聖省長官セペル枢機卿(Cardinal Seper)に送った。教理聖省は“両枢機卿によりなされた批判”の精査を行うようにと依頼した。セペル枢機卿はグート枢機卿に相談し、ブニーニに要求して新しいミサ式次第の最終的な出版を一時的に差し控え、教理聖省の神学者3名に批判研究小論を調査させることを命じた。パウロ6世は、使徒座憲章の初版には存在していなかった「この憲章に規定したことは、本年の11月30日待降節第1主日より発効するものとします」という22語を、密かに付け加えていた。他方で、Nostra haec autem statua et praescripta nunc et in posterum firma et efficacia esse et fore volumus.(上記の規定と決定とが今も将来にも確定され、効力を持つものであることを望みます。)と自分の意志を表明したが、この規定は聖変化の言葉の新しい形式についてのみ関わることであったので、パウロ6世は「真に法律上の意味合いにおいて、間違いなく御自分のミサ典書の義務化をお望みにはなってはいなかった」と言える。 11月3日、署名のないの通達がオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙に現れ、イタリア司教団の通達として1969年11月30日から新しいミサの式次第に従ってミサを行うべしと書かれていた。しかし、この通達について尋ねられると、イタリア司教協議会議長ポマ枢機卿は何も知らなかったと述べた[要出典]。 11月12日、教理聖省長官であるセペル枢機卿は、国務聖省を通して教皇に教理聖省の神学者3名による批判研究の分析結果を送った。これによれば「批判研究は、表面的で過大で不正確で過激で誤った命題が多数含まれている」とした。 パウロ6世は、オッタヴィアーニ枢機卿らによって批判されていたミサ典礼総則第7条を修正するように要請した。しかし、問題の総則第7条に対応している新しいミサの式次第それ自体の修正は行わなかった。そして11月19日に、新しいミサは正統であると訓話をして、10日もするとイタリアではそれが“義務”となる事を明示した。また11月26日の第2回目の訓話でパウロ6世は、この変革が「非常に大きな犠牲」であると言った。しかし、パウロ6世の新しいミサとその総則は、1969年4月3日の承認後に、何度も修正が加えられ、公式の規範版が発表されたのは、1970年3月のことであった。
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